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岡崎慎司はビエルサのリーズに誘われていた? 滝川二高と世界的戦術家の不思議な縁とは
text by
赤石晋一郎Shinichiro Akaishi
photograph bySANKEI SHINBUN
posted2020/12/12 17:02
2003年1月、全国高校サッカー選手権準々決勝、滝川二-東福岡の後半36分、勝ち越しのゴールを決めた滝川二FW・岡崎慎司(左)
大黒柱だった岡崎の疲労骨折が発覚
2004年のインターハイでは滝川二高はビエルサ流の3-3-1-3を本格導入する。ビエルサのアルゼンチン代表や滝川二高が採用していた3-3-1-3は、当時サッカー界の主流だった4-4-2等の2トップにマッチアップさせる為のシステムだ。岡崎、木島らによる3トップは破壊的な攻撃力を持っていた。同大会では優勝した国見高校とPK戦(敗退)に縺れ込む接戦を見せ、結果はベスト8に終わったが攻撃サッカーで大会を席巻したのだ。
滝川二高は兵庫県内では敵なし、全国大会でも優勝候補の一角と目されるようになった。2004年の高校選手権では星稜高校の本田圭佑が、「強豪と戦いたい」という理由で、抽選箱から見えた「滝川二高」の札をあえて引いたというのは有名な逸話となった。
だが、最後の選手権直前に大黒柱だった岡崎の疲労骨折が発覚する。
「まさに痛恨の思い出です。疲労骨折は海外ではほとんど見られない負傷です。私自身も怪我の可能性を減らしながらパフォーマンスを上げる指導を心掛けていたので、無念でした。言い訳になりますが、慎司は寮生活をしており、彼が自主的に朝練を行っていたことまで管理出来ていなかったのです」(荒川)
シード校であるため2回戦から登場となった滝川二高の初戦は、前述のように本田圭佑擁する星稜高校だった。負傷の岡崎はベンチスタートとなった。試合は本田が2ゴールを決める大活躍、岡崎も足を引きずりながら途中出場して1ゴール。トータル3-4の打ち合いの末、滝川二高は敗退する。
ビエルサの遺伝子を受け継いだ滝川二高は、高校サッカーに1つの伝説を築きながらも儚くも美しく散ったのだった──。 (敬称略)
【取材協力】株式会社 MRH&CANTERA
〈参考文献〉
『ビエルサの狂気』(ベースボール・マガジン社)
『leedsunited.com』、『Leeds Live』、『GOAL.COM』、『OLE.COM.AR』他
荒川友康(あらかわ・ゆうこう)
サッカー指導者。アルゼンチンで複数のチームや滝川第二高校での指導を経て、ジェフ千葉・育成コーチ、京都サンガ・トップチームコーチ、FC町田ゼルビアトップチームコーチなどを歴任。ビエルサのみならず、Jリーグでもアルディレスなどの名将の元で働く。アルゼンチンサッカー協会認定のS級ライセンスを所持。FCトレーロス所属。