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【生前最後のインタビュー】マラドーナが語っていた“サッカー人生の誇り”「ボールを通じて人々を幸せにできた」
posted2020/11/30 11:02
text by
フローラン・トルシュFlorent Torchut
photograph by
JMPA
ディエゴ・マラドーナの突然の訃報は全世界に衝撃を与えた。逝去の報が伝えられた翌26日にレキップ紙は19ページの特集を組み、さらに次の27日にも4ページを割いたうえに前日の19ページも再掲載して不世出の天才の死を悼んだ。
FF10月28日発売号は、同30日に60歳の誕生日を迎えたマラドーナの特集号だった。その目玉として掲載されたのが、フローラン・トルシュ記者による独占インタビューであった。FF誌としては、名誉バロンドールを贈って栄誉を称えた1995年以来実に25年ぶりのインタビューであり、恐らくはマラドーナの生前最後のロングインタビューでもある。
だが、このインタビューは、実現にこぎつけるまで困難を極めた。元来スーパースターのインタビューは誰でも簡単ではないが、マラドーナの場合はさらに特別である。8週間以上に及んだ交渉はしばしば相手が変わり、その間に状況も変化した。ようやく実現した9月末の最初の対面機会は、彼が監督を務めるヒムナシア・ラプラタとサンロレンソの親善試合の終わりにファンが暴動を起こし、マラドーナはセキュリティに保護されて退場したために実現しなかった。その2日後にはヒムナシアの選手1人がコロナに感染し、パニックを起こした取り巻きたちによりマラドーナは隔離されて、元恋人のベロニカ・オヘダと7歳になる息子のディエギート・フェルナンドしか彼に接触できなくなってしまった。リモートによるインタビューがようやく実現したのが、それからさらに9日後の10月11日であった。
全体に落ち着いたインタビューになっているのは、60歳という年齢のなせる業であるのか。ただ、それでも随所にマラドーナらしさは垣間見られる。マラドーナの生前最後の声を、存分に味わってほしい。(全2回の1回目/#2に続く)
(田村修一)
抜け殻のようにも見えた“最後のマラドーナ”
普通はコンタクトが不可能であるのに、彼はFF誌のために時間を割いてくれた。質問の趣旨は、人生の岐路となった幾つかの瞬間を振り返ることである。抜け目のなさと反骨精神、純真さとエゴイズム……。《黄金の子供(若いころのマラドーナの愛称)》が自身を語る。
企画を立ち上げたときから、難しい仕事になるのはわかっていた。だが、失望は感じなかった。ディエゴ・マラドーナのインタビューを実現するまでは、様々な障害や事態の急変が次々と起こり、全速力でマラソンを駆け抜けるようなものである。いつまでたってもゴールラインに到達しない。それでも《黄金の子供》は、それだけの労を費やすに値する。それが当然であり、また難しさでもある。
「ディエゴに繋ぎます」
数週間にわたる折衝と、幾度となく延期されキャンセルされたアポイントメントの後、さらに数時間の遅れを経て、ついにマラドーナが画面の前に現れた(コロナ禍のため対面取材は避けられた)。皮ばりのソファーに身を沈めた彼は、心から寛いでいる様子だった。
ときは10月半ば、コロンブスのアメリカ大陸到達を記念した祝日の午後である。マラドーナの携帯を手にしているのは元恋人のベロニカ・オヘダ。ブエノスアイレスの中心街から30kmほど離れたサン・ミゲル地区の独立居住区ベラ・ビスタ内にあるマラドーナのヴィラで、彼女はいつものようにマラドーナに寄り添っていた。
緑に囲まれ俗世間から隔絶した閑静な邸宅で、ひと月前にヒムナシア・ラプラタ(アルゼンチンリーグ1部。9月5日に就任したものの、11月19日には成績不振により辞任)の監督に就任したマラドーナは、昼寝を終えたばかりでいまだまどろみの中をさまよっているようだった。口調はゆっくりで、活舌もはっきりしない。それは猛スピードで人生を駆け抜けたマラドーナの抜け殻のようにも見えた。だが、語る言葉そのものは、いつもの彼らしくストレートで稚気に溢れている。こうして9月30日のサンロレンソとの親善試合以来、公衆の面前に現れなかったマラドーナのインタビューが始まったのだった。
――20年前に刊行された自伝《Yo Soy el Diego de la gente(『私は民衆のディエゴ』》では、「彼らが僕を(生まれ育った)ビジャ・フィオリトから追い出した。僕の尻に蹴りを入れながら。それから僕は自分に出来ることをやり、そんなに悪くはなかったと思う」と語っています。