フランス・フットボール通信BACK NUMBER
【生前最後のインタビュー】マラドーナが語っていた“サッカー人生の誇り”「ボールを通じて人々を幸せにできた」
text by
フローラン・トルシュFlorent Torchut
photograph byJMPA
posted2020/11/30 11:02
10月30日には60歳の誕生日を迎えていたマラドーナ。おそらく、これが生前最後インタビューとなった
「長い僕のキャリアにおいて、結局は……。(言い直して)キャリアの中で僕は、あらゆる意味において破廉恥なことをたくさん見てきた。ピッチの上では多くの攻撃を受けた。ピッチの外でもあらゆるところで僕は攻撃された。それが家族にまで及ぶこともあった。弟たちや姉妹、ベンハ(セルヒオ・アグエロと次女ジャンニーナの息子)までが酷い目に会って、他人の恩恵を受けたことなど一度もない……。ただ、世界中で起きている戦争や、年端もいかない子供たちがたくさん死んでいる世界の現状を考えると、恵まれているとは思うよ」
――長く国外で暮らした後に再び祖国アルゼンチンに戻ったのはどんな意味がありますか?
「2010年にアルゼンチン代表を率いて南アフリカW杯を戦った(準々決勝でドイツに0対4で敗退)後、僕は情熱を持って監督の仕事を続けるためにアルゼンチンを離れざるを得なかった。というのもフリオ・グロンドーナ(1979年以来アルゼンチン協会の会長を務め、南アフリカW杯後、マラドーナ監督を解任した4年後の7月30日に現職のまま死去)が、僕の続行を望まなかったからだ。だから国外に新天地を求めるしかなかった(主にUAE――アルワスルとアルフジャイラ――とメキシコ――ドラドス・デ・シナロア――で活動)。そして今、幸運にも母国に戻ることができたわけだ。
たしかに今はコロナの影響もあっていい環境にあるとはいえない。メキシコから戻った後に感染が広がり、南アメリカ大陸の人々に大きな打撃を与えた」
バルサ、ナポリ時代を振り返って……
――60歳の誕生日(10月30日)を迎えた今、まだ《黄金の子供》と呼ばれていたアルヘンチノス・ジュニオルス(1976~81年)とボカ・ジュニオルス(1981~82年)の時代にどんな思い出がありますか?
「プロとしてデビューして間もないあのころは、自分が実現してきたことにとても満足していた。スタジアムに試合を見に来た人々、テレビの前で僕のプレーを見ていた人々に、喜びを与えられたという確かな手ごたえを感じていたからだ。ボールを通じて人々を幸せにすることができた。それが僕の一番の誇りだ」
――その後はヨーロッパにわたり、バルセロナ(1982~84年)とナポリ(1984~91年)で過ごしました。タイトルや名声、怪我とスキャンダル……。いいことも悪いこともすべて経験しました。
「ヨーロッパに行ったのは、最高のサッカーに触れて新たな挑戦に挑むためだった。当時はまだ南米の選手がヨーロッパのクラブに移籍してプレーするのは簡単ではなかった。僕もリスクを冒した。遠いところからスタートしてすべてを賭けた。それが僕のやり方だからで、どこでも僕はそうしてきた」
――1989年にはオリンピック・マルセイユとサインする寸前までいきました。なぜ実現しなかったのか、詳しく説明してもらえますか?