ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
21年ぶり神宮、先駆けはUインター。
幻の高田vs.健介……野外興行の歴史。
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byMoritsuna Kimura/AFLO
posted2020/08/28 15:00
神宮球場での開催は実に21年ぶり。写真は1999年9月11日、Uインターの高山と初対戦した全日の川田。
荒天中止のリスク、莫大な放映権料。
日本のプロレス界が、野外のスタジアム興行を頻繁に行うようになったのは、じつは平成になってから。プロレス黎明期である日本プロレス時代には、力道山vs.ルー・テーズが行われた'57年10月7日に後楽園球場や、ジャイアント馬場vs.ジン・キニスキーの'67年8月14日大阪球場などがあるが、昭和の新日本、全日本ではプロ野球チームのフランチャイズとなっている野球場での大型興行は行われなかった。
その理由は、「チケットぴあ」などのチケット販売網がまだ確立されていない時代、野球場はプロレス興行を行うには、あまりにも大きすぎたこと。また、どうしても荒天での興行中止というリスクがつきまとう、ということがあった。
また70年代から80年代後半まで新日本プロレスは、毎週テレビのゴールデンタイムで放送され、年間で莫大な放映権料を得ていた時代。野外スタジアム興行という、ハイリスク・ハイリターンな“博打”をする必要はなかったのである。
それもあって、プロレスの野外スタジアム興行を復活させたのは、'89年5月4日に大阪球場に進出した第二次UWFだった。UWFはテレビ放送を持たず、興行でのゲート収入とグッズ販売が経営の大きな柱となっていたため、大規模興行を必要としていたのだ。
野外スタジアム隆盛の理由。
そして平成となり、プロレス界は多団体時代を迎え、新日本と全日本のテレビ放送もゴールデンタイムを外れたことで、プロレスはテレビからライブで観る時代へと変わっていく。その流れの中で、野外のスタジアム興行も増えていった。
新日本が東京ドーム興行を恒例化させる一方、経費が莫大にかかるドーム興行は打てない他の団体は、野外スタジアムに進出するようになったのだ。大仁田厚のFMWは川崎球場を聖地としながら、横浜スタジアムや阪急西宮球場にも進出。FMWのライバルと言われた、IWAジャパンも'95年8月に川崎球場大会を行なっている。さらに前述のとおりUインターが神宮球場で計3度大会を開催。90年代のプロレス界は、野外スタジアム興行花盛りとなったのだ。
2000年代に入りプロレス人気が低迷していくと、数万人規模の野外スタジアム興行は、ほとんど行われなくなってしまった。ただその間も、新日本は1月4日の東京ドーム興行を絶やすことはなかったし、今は設備が整った屋内の大会場も増えた。わざわざ、雨天中止のリスクがある野外ビッグイベントをやる必要はないのかもしれない。
しかし、音楽のフェスと同様に、夏の野外ビッグイベントには、屋内アリーナの大会では味わえない独特の雰囲気と良さがある。野外では試合だけでなく、その場で経験することすべてが思い出になるのだ。