ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
DDTとノア統合。企業プロレス30年。
メガネスーパーの志と週プロの妨害。
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byNaoya Sanuki
posted2020/08/03 17:00
1991年、SWS創立1周年記念試合のリングに上がった天龍源一郎(左)と阿修羅原。
派閥を生む部屋制、マッチメイクの紛糾。
それでもSWSのリングですごい試合が展開され、クオリティの高い興行になっていれば、ファンの見方も変わっていたはずだ。しかし、SWSの選手は各団体からの寄せ集めだったこともあり、噛み合わない試合が続出。
さらにSWSは各道場の切磋琢磨を促すべく、天龍のレボリューション、ジョージ高野のパライストラ、将軍KYワカマツの道場・檄、という大相撲を参考にした部屋別制度を導入したが、これが派閥を生み、選手一丸となって新団体を盛り上げるのではなく、足を引っ張り合うような結果となってしまった。
天龍の盟友であるザ・グレート・カブキがマッチメーカーに就任すると、他の部屋からの反発はさらに高まり、マッチメイクはたびたび紛糾。本来、プロレスにおいてマッチメーカーの権限は絶対だが、一部の選手たちはオーナーである田中社長に直接、苦情を入れるようになる。他の団体ならこのような越権行為は許されないが、田中社長が業界のルールを知らないことをわかった上での確信犯的行動だった。
こうして現場はつねに混乱し、SWSは早々に内部崩壊を起こしていく。また十分なお金をもらっていながら勝手な行動をする一部選手に田中社長自身が手を焼き、当初の情熱を失っていった。そしてプロレス市場空前絶後の資金力を持って誕生したSWSは、’92年6月、わずか2年あまりで幕を閉じたのである。
親会社の現場介入はない。
田中社長は、現場で自ら陣頭指揮を執るなど、SWSに情熱を傾けてはいたが、プロレス興行に関しては素人。そのオーナーが現場の最高責任者も兼ねていたことも、SWSが失敗した大きな要因のひとつだった。
このSWSの教訓もあり、現在、新日本プロレスやDDT、ノアに対して、親会社から直接的な現場介入はない。親会社は経営面や、宣伝活動などに力は入れても、プロレス自体はあくまで現場に任せる。そのことでファンの支持を得てきた。
メガネスーパーは、大資本を投入した偉大なスポンサーではあったが、残念ながらプロレスの深い部分への理解度と、団体としての理念や明確なビジョンが足りなかった。しかし、それでもSWSがのちのプロレス界に多大なる影響と教訓を残したことはたしかなのだ。