ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
DDTとノア統合。企業プロレス30年。
メガネスーパーの志と週プロの妨害。
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byNaoya Sanuki
posted2020/08/03 17:00
1991年、SWS創立1周年記念試合のリングに上がった天龍源一郎(左)と阿修羅原。
大手メガネスーパーの参入。
日本のプロレス団体が企業をバックにした体制になったのは、それほど昔のことではない。2000年代初頭、“メジャー3団体”と呼ばれた新日本、全日本、ノアは、それぞれアントニオ猪木、馬場元子(故ジャイアント馬場夫人)、三沢光晴という創業者がオーナーだった。
20年前の時点では、いわば団体創設者であるトップレスラーの“個人商店”的な色合いが残っていたわけだが、2000年代にプロレス人気が低迷したことで各団体の経営状況が悪化。そんな中、2005年に団体存続の危機に陥った新日本が、ゲーム会社ユークスの子会社となることで経営破綻を免れ、ここから企業プロレス時代がスタートする。
そして'12年からは新日本プロレスがブシロード傘下となり現在の地位を築いていったわけだが、キャリアの長いファンは、それ以前にも巨大な企業プロレス団体が存在したことをご存知だろう。メガネ小売業界大手メガネスーパーが、1990年に設立した団体SWSがそれだ。
息子が大のプロレスファン。
もともと'89年にUWFの横浜アリーナ大会、東京ドーム大会の冠スポンサーとなったメガネスーパーがプロレス界に本格参入するきっかけとは、息子が大のプロレスファンでもあった田中八郎メガネスーパー社長(当時)の純粋な思いからであったと言われる。
今ではプロスポーツはもとより、アマチュアスポーツでも企業のバックアップがあるのは当たり前だが、当時のプロレス界は、放映権料というかたちでテレビ局からの支援こそあったが、企業が年間を通じてバックアップするという体制ではなかった。さらに各団体はバラバラに運営されており、競技を統括する協会の存在すらない。
プロレスが他の“スポーツ競技”とは毛色の違う特殊なジャンルであることを考えれば、それは当然のことでもあったが、さまざま一般スポーツも支援していた企業人である田中社長の目には、プロレス界が“手付かず”の状態に映った。そこから「将来的にはメガネスーパーが、プロレス界にプロ野球並みのコミッションを作りたい」という、大きな志とともにプロレス界参入を決意したのだ。