プロレス写真記者の眼BACK NUMBER
巨大な米組織を超え世界一を目指した。
アントニオ猪木の夢、IWGPの原点。
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2020/06/27 11:00
NWF王座を返上してIWGP制覇に乗り出したアントニオ猪木。左は長州力、右は坂口征二。(1981年4月23日、蔵前国技館)
ジャンボ鶴田はIWGPに参加したかったのか?
新日本は外国人ばかりか、全日本の次代のエースである鶴田にまで触手を伸ばしていた。鶴田にまったくその気はなかったようだが……馬場がこの接触の事実については語っている。
「引き抜き」と言うと聞こえは悪いが、これをスポーツ選手の「移籍」ととらえれば、それほど悪いことだとは思えない。プロモーターにとってはファイトマネーの増額というマイナス面こそあるが、選手はより厚遇を得るわけだし、ファンにとっても試合の新鮮さと話題性で新たなエネルギーと活性化を得られるわけだ。
わずか1カ月間で世界を回って連戦を!?
国内的な事件とは別に、IWGPは何度も軌道修正を余儀なくされた。
F1グランプリのように世界を転戦していくには経費が掛かり過ぎて、世界各地での有力プロモーターの賛同は結局得られなかった。
修正を繰り返して消えたプランの中には、例えばこういうものがあった。
決勝リーグの初日は、1983年5月5日は東京でのレセプションから始まるとする。その後、翌6日から12日まで日本の主要都市で連戦。14、15日は韓国のソウル。17日にはフィリピンのマニラ。18日はヨーロッパの主要都市、19日は西ドイツのデュッセルドルフ。20、21日はUAEのドバイ。22日はメキシコシティ。23日からはニューヨークのMSGへ。26日から6月1日まで日本主要都市。6月2日に東京の蔵前国技館で決勝戦……といった具合だ。
この空路による移動は、チャーター便でもないのに綱渡り的なスケジュールで、そもそも物理的に実現が難しいものだった。興行事故を防ぐためにも、日程にもう少し余裕を持たせる必要もあった。
それでも、新日本プロレスのこういった壮大なプランには、NWA世界王座のステータスを超えようとする世界に向けての挑戦状のようなものが感じ取れた。