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巨大な米組織を超え世界一を目指した。
アントニオ猪木の夢、IWGPの原点。

posted2020/06/27 11:00

 
巨大な米組織を超え世界一を目指した。アントニオ猪木の夢、IWGPの原点。<Number Web> photograph by Essei Hara

NWF王座を返上してIWGP制覇に乗り出したアントニオ猪木。左は長州力、右は坂口征二。(1981年4月23日、蔵前国技館)

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原悦生

原悦生Essei Hara

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Essei Hara

 アントニオ猪木を追いかけ続けて50年! 伝説のプロレスラーを長年撮影してきた伝説のカメラマン原悦生が、今だから明かせる秘話を綴ってくれました。今回は「IWGP構想」の原点から現在のIWGP王座に至るまでの話。IWGP編は全3回。第1回は、「なぜ猪木はIWGPを作ったのか?」です。

 IWGPヘビー級王座は新日本プロレスの看板タイトルであり、このタイトルが日本にあることは今ではアメリカでもしっかりと認知されている。プロレスの本場である米国においても、『Sports Illustrated』や『Forbes』など一流メディアの配信記事でしっかりと確認できるほどなのだ。

 IWGPの起源は40年前にさかのぼる。「NWA世界ヘビー級王者を超える世界王者を決める」という発想からIWGPは生まれた。

 このプランを最初に聞いたのは、1980年12月の会見でだった。「インターナショナル・レスリング・グランプリ(もしくはグランドチャンピオン)」というフレーズは、まだ決まっていなかったと思う。当初のコンセプトそのものには十分に共感できたが、1981年になってアントニオ猪木の口から発せられたやや長めのフレーズ、略した4つのIWGPというアルファベット……最初はどちらも正直ピンと来なかった。

 1970年代のプロレス界における世界タイトルでなじみのあるものは、有名なものから順にNWA、AWA、WWWF(のちに3文字になってWWF、現WWE)で、3大タイトルと呼ばれていた。その後ろに遠く離れて続いていたのが、4番目のタイトルのNWF(ナショナル・レスリング・フェデレーション)である。当時のアメリカのレスリング専門誌に記載されているタイトルはこの4つだけであった。

せっかく手に入れた世界王者のタイトルだったが……。

 当時ジョニー・パワーズらが主宰していたNWFは、アメリカ北東部のニューヨーク州バッファローやオハイオ州クリーブランドといった小さなマーケットのローカルタイトルだったが、カナダやミシガン州などにも勢力を拡大している途上だった。ところが、パワーズがNWF世界王座を猪木に明け渡した後、団体としては急速に弱体化していった。タイトルの管理そのものも、事実上新日本プロレスに移ってしまい、NWF王座は新日本プロレスの一部になってしまっていた。

 猪木がNWFを手に入れたとはいっても、アメリカ最大規模の「NWA」というプロモーターの集合体は、怪物のように巨大だった。

 NWAに所属するプロモーター達は、独禁法ギリギリのところでカルテルのような契約まで結んでいたと聞く。すでにして全米の主要大都市でのプロレス興行マーケットを完全支配しており、海外の大きなマーケットだったメキシコや日本とも密接な関係を築き上げていた。NWA各加盟団体の興行には、NWA世界王者がやって来て現地で世界戦を行ってくれた。NWAは、プロモーターを十分に潤して、さらには多くのレスラーの配給についてもプロモーター同士がうまく連携して不満の出ないようにコントロールしていた。

 完全にアメリカ市場を押さえていたNWAの存在があったゆえに、構造的にその下の格付けとなるNWFのタイトルでは、猪木にはどうにも物足らない存在になっていったのである。

【次ページ】 世界最大のプロレス団体NWAの威光の下で。

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