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巨大な米組織を超え世界一を目指した。
アントニオ猪木の夢、IWGPの原点。 

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原悦生

原悦生Essei Hara

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posted2020/06/27 11:00

巨大な米組織を超え世界一を目指した。アントニオ猪木の夢、IWGPの原点。<Number Web> photograph by Essei Hara

NWF王座を返上してIWGP制覇に乗り出したアントニオ猪木。左は長州力、右は坂口征二。(1981年4月23日、蔵前国技館)

世界最大のプロレス団体NWAの威光の下で。

 アントニオ猪木らが日本プロレスから離脱して1972年に旗揚げした新日本プロレスは、当初から外国人レスラーの招聘に苦労していた。なので、どうしてもNWAルートは欲しかった。

 ところが、日本プロレス崩壊後の1972年に旗揚げされていた全日本プロレスの、ジャンアント馬場を通じた外国人レスラー招聘ルートがNWA内では幅を利かせており、猪木たちはそのルートが使えなかった。さらに全日本プロレスと違って、旗揚げ直後の新日本プロレスはNWA加盟が認められず、2度も行った申請すべて却下されてしまっていた。ようやく1975年に加盟承認をもらった後も、ラスベガスで行われる「NWA総会」では肝心の議場にさえ入れてもらえず、ロビーで待機するという冷遇を受け続けていたのである。

 後に猪木が、「入れてくれないんだからしようがない」とあきれたように言い放っていたのを覚えている。猪木と一緒に総会に赴いていた会員には、坂口征二と新間寿らがいたが、同じような感想だった。

 NWA内では、サム・マソニック、フリッツ・フォン・エリック、ボブ・ガイゲル、エディ・グラハム、ジム・クロケット・ジュニアら有名プロモーターと有名選手らが団体の運営における主流派として辣腕を振っていた。ニューヨークのビンス・マクマホン(シニア)も1971年からメンバーに名を連ねていたが、その頃はまだ傍流だった。

 当時のNWAの権勢を示す逸話としては、WWWF世界ヘビー級王座の例がある。

 ブルーノ・サンマルチノが長く保持し、その後ペドロ・モラレスに受け継がれていた名門であるWWWF世界ヘビー級王座さえ、1971年にNWAへの再加盟の条件としてそのタイトル名から「世界=World」を外すことを強いられているのである。

 当然、新日本プロレスにもこの「世界」外しの条件は当てはまり、加盟後の1976年8月からNWF世界ヘビー級王座はNWFヘビー級王座になっていた。

世界王者に挑戦さえできなかった猪木の逆襲。

 一方のジャイアント馬場は、短期ではあるがジャック・ブリスコやハーリー・レイスを下してNWA世界ヘビー級王座に3度ついている。ところが新日本時代の猪木には挑戦のチャンスさえ回ってこなかった。猪木がNWA世界戦を戦えたのは、新日本を立ち上げる前、日本プロレス時代の2度のドリー・ファンク・ジュニア戦だけである。

「チャンスが与えられないなら、作ればいい」それがIWGP構想のスタートだった。

 モハメド・アリ戦で生じた、当時にして18億円ともいわれた巨額の借金の返済が終わった猪木が求めたものは、「NWA世界王座を超えるものを作る」という世界市場への挑戦状だった。

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