オリンピック4位という人生BACK NUMBER

<オリンピック4位という人生(11)>
アテネ五輪男子リレー・土江寛裕
 

text by

鈴木忠平

鈴木忠平Tadahira Suzuki

PROFILE

photograph byAFLO

posted2020/06/21 11:40

<オリンピック4位という人生(11)>アテネ五輪男子リレー・土江寛裕<Number Web> photograph by AFLO

最終走者の朝原宣治(左)と第1走者の土江寛裕。4年後、土江はコーチとしてリレー4×100mに臨んだ。

0.2秒、2mは銅メダルと4位の差。

 明らかに遅れたスタート。隣のレーンの選手も遅れたため土江は気づかなかったが、プレス席からランナーたちを俯瞰して見ることのできた記者は異変に気づいた。

「日本でやる大会のスタートシステムとは少し違っていて、事前に他の日本選手から『音の聞こえ方が変だぞ』ということは聞いていたんですが……、あまりの緊張で頭から吹っ飛んでしまっていました」

 自分のスターティングタイムを見てみると0.3秒以上かかっていた。第一走のスペシャリストである土江はいつもなら0.12~0.13秒台で出られるはずだった。

「その0.2秒、距離にして2mというのは、そのまま銅メダルのナイジェリアとの差なんです。つまり僕の責任でメダルを取れなかったんです……」

 冷酷な現実に心の天秤は完全に傾いた。「なにしてんねん」。チーム最年長の朝原はそう言っただけで、あとはいつものようにカラッと笑ってくれた。末續慎吾、高平慎士も何事もなかったように接してくれた。

「それが逆に辛くもあって……。オリンピックのファイナルって、みんなにとっても人生で一番大事なレースで、次は4年後なので。そんなところで僕がミスをしてしまって、本当に申し訳なかったです」

 小さな頃から憧れていたオリンピックはアテネの苦い夜とともに終わった。

200m日本王者だった父からの教え。

 山陰・島根の出雲で生まれた。200mの日本王者だった父からは、どんなに小さな“かけっこ”でも1番になれと言われた。

 高校のとき、インターハイで3位になって喜んだらこっぴどく叱られた。

『1位以外は全員が敗者なんだ』

 父は土江が走るとなれば、当時発売されたばかりの大型ビデオカメラを肩に担いであらゆるレースに駆けつけた。

「家に帰ると親父が『ビデオを出せ』と言って、そこから僕の走る映像を見ながら、ずっとダメ出しです」

 だから早稲田大に進んで親元を離れ、世界を舞台に戦うようになっても土江には勝者と敗者の境界線がはっきりと見えた。

「オリンピックの勝者というのはメダリストであると、そう考えていました。だから自分としてはアテネの4位というのは最もとってはいけない順位だったんです」

 少年時代から刷り込まれた人生観はアテネのレースが終わったあとも土江を苛み、あのスタートを何度も胸によみがえらせた。

【次ページ】 スタッフとして数値で策を伝える。

BACK 1 2 3 4 5 NEXT
朝原宣治
土江寛裕
オリンピック・パラリンピック

陸上の前後の記事

ページトップ