熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
15歳カズの指導者や恩人が懐かしむ
跨ぎフェイント、ヘアスタイル秘話。
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byHiroaki Sawada
posted2020/06/12 19:00
カズがサンパウロで行きつけにした理髪店にて。右から2人目が店主の木村光子さん。
「W杯でカズダンスを披露する資格が」
最後にパウミーロ氏は少し思い詰めたような表情を浮かべ、「日本のフットボール関係者に言いたいことがある」と自ら切り出した。
「カズの夢は、日本代表の一員としてワールドカップに出場することだった。しかし、あれだけ日本のフットボールの発展に貢献し、日本代表でも活躍したのに、ワールドカップの舞台には一度も立てていない。
これは、どういうことなんだろう。全く理解に苦しむ。彼の心情を思うと、私は胸が張り裂けそうになる。
あれほど日本のために頑張ってきた男が、そんな仕打ちを受けていいはずがない。彼には、ワールドカップに何度も出場して、自分の得点で日本代表に見事な勝利をもたらし、世界中の人々の前で、笑顔でカズダンスを披露する資格があったはずだ。私はそう信じて疑わない」
どんなに削られても試合を休まない。
1986年2月、名門サントスとプロ契約を結んだが選手層が厚く、ほとんどプレーさせてもらえない。出場機会を求め、南部パラナ州のマツバラへ移籍した。
カズがプロになってからのほぼ全試合を取材したのが、サンパウロ在住のカメラマン、西山幸之さんだ。
――マツバラで、カズはかなり苦労したようですね。
「クラブがあるカンバラは、人口2万人ほどの田舎町。娯楽が何もない。気分転換ができず、つらかったようだ。
左ウイングのレギュラーになったんだけど、跨ぎフェイントなど派手なドリブルをするので、徹底的に削られた。一発退場が当然の無茶苦茶なファウルを受けても、審判がイエローカードすら出さないんだ。だから同じ試合で、同じ選手から繰り返しやられていた。試合が終わると、いつも体中があざだらけだった。
でもカズは大きな故障をしないし、少々の怪我では試合を休まない。本当に根性があるな、と舌を巻いた」
――パラナ州は広いから、州選手権では移動も大変です。
「飛行場がないような小さな町でも試合をするから、たいていバスで移動する。10時間以上かかるのはザラ。夜通しバスに乗り、試合当日の朝に着いて午後試合、ということもあった。
大変だったと思うけど、若かったから耐えられたんだろうね」
――若手プロだった頃から、「将来は日本代表に入り、ワールドカップに出場する」という夢を持っていたようですね。
「マツバラ時代だったかな。当時カズが住んでいたホテルの部屋を訪ねたら、直立して右手を胸に当て、大声で君が代を歌っていた。
何やってるんだ、と聞いたら『代表に入った時の予行演習をしてるんです』って答えるんだ。そんな練習をする必要があるのか、と言ったんだけどね(笑)」