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最強ジュビロがテヘランに抗った日。
アジア制覇の価値はまだ低かった。 

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戸塚啓

戸塚啓Kei Totsuka

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photograph byJ.LEAGUE

posted2020/04/30 11:40

最強ジュビロがテヘランに抗った日。アジア制覇の価値はまだ低かった。<Number Web> photograph by J.LEAGUE

中山雅史31歳、名波浩26歳、まさにジュビロの黄金期真っ只中の1999年だった。

最初はマリノス、そしてジュビロが。

 実は1993年のJリーグ開幕直前に、横浜マリノスがアザディ・スタジアムで戦ったことがある。アジアカップ・ウィナーズ・カップ決勝で、テヘランに本拠を置くペルセポリスと激突したのだ。

 ホームの第1戦を1-1で引分けていたマリノスは、敵地で1-0の勝利をつかんでタイトルを手繰り寄せた。開幕間近のJリーグに勢いをつけるトピックだったが、国内でアメリカW杯アジア1次予選が行われていたこともあり、全国的なニュースにはならなかった。

 次にアザディ・スタジアムへ乗り込んだのが、1999年4月のジュビロ磐田だった。ACLことアジアチャンピオンズリーグの前身となるアジアクラブ選手権のファイナルラウンド。西アジアからアル・アイン(UAE)とエステグラル(イラン)が、東アジアからジュビロと大連万達(中国)が、テヘランに集ったのである。

アジアを制すことの価値は高くなかった。

 当時の日本サッカー界は、Jクラブがアジアの頂点に立つことに大きな価値を見出していなかった。大会フォーマットや日程がJリーグとうまく噛み合わず、それゆえに国内での注目度が低かったのが大きな理由だった。

 クラブW杯の前身となるFIFAクラブ世界選手権へのつながりは見えてきたものの、トヨタカップは依然として日本を舞台に開催されていた。アジアクラブ選手権は立ち位置の曖昧な大会であり、負けることに痛みを感じないものだったと言える。Jリーグ開幕以降にこの大会に挑んだヴェルディ川崎とマリノス、それに鹿島アントラーズは、いずれもグループリーグで敗退していた。

 Jリーグや日本サッカー協会のバックアップも、かなり控えめだったと言っていい。ジュビロは4月24日に清水エスパルスとリーグ戦を戦い、4日後の28日にアル・アインとの準決勝に挑んでいる。スケジュールの援護を受けることはできていない。

【次ページ】 前年でドゥンガが去り、決勝は純和製チーム。

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