ぶら野球BACK NUMBER
他者の本の中のノムさんはリアルだ。
古田、片岡スカウト、吉井、克則。
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byKyodo News
posted2020/04/19 11:40
古田敦也と野村克也、2人の師弟関係の始まりは「眼鏡のキャッチャーはいらん」だった。
息子・克則に「お前じゃ無理だ」。
さて、そんな黄金時代を築いた野村ヤクルトに、その息子・克則が入団してきたのが1996年のことである。明治大学のキャッチャーを務めていたが、球界最高の捕手・古田は当時30歳で脂が乗り切っていて、他球団ならスタメンで出られると言われた第2捕手の野口寿浩とはたったの2歳差だった。レギュラーは遠く苦労するのは目に見えている。
克則の著書『プロ失格』(日本文芸社/2011年)によると、父・克也にドラフト前にプロ入りの希望を伝えた際には、「お前じゃ無理だ。苦労するのは目に見えている。ちゃんとした会社に勤めて、安定したところに行け」と諭された。
いつの時代も、どの世界でも父子鷹というのは、息子が圧倒的なポテンシャルでチームの主力にでもならない限り厳しい。嫉妬交じりの視線に加え、すぐ贔屓だなんだと外野が騒ぐからだ。映画プロデューサーの奥山和由は、父が同じ映画会社の社長を務めていたため、年上の大御所監督からこう言われたという。
「あんたは親父がいる会社にいることもあって、ちょっとやそっとの実績あげても誰もそう易々とは認めないよ。これでもか、これでもか、これでもまだわからないか……そのくらいやって初めてあぁそうですか。ちょっとだけ認めてあげましょう、そんな感じだよ。それを覚悟して生きていかないと。それがあんたの宿命だ」(『黙示録 映画プロデューサー・奥山和由の天国と地獄』/春日太一著/文藝春秋/2019年)
野村克也の息子であることを支えに。
ヤクルトにおける克則の立場も似たようなものだった。通算657本塁打の大打者にして稀代の名将、偉大すぎる親父のチームでプレーする喜びと苦しみ。週刊誌からはやはり「えこひいき起用」と書き立てられ、さらに母・沙知代がテレビに出るようになると、二軍戦のスタンドからは「ピンチヒッター、サッチー!」なんて心ない野次も飛んだ。
親父が監督だろうと関係ない。自分はひとりのプロ野球選手としてプレーしているのに……。悔しかったが、不思議なことに腐りそうな時、心の支えとなっていたのは「僕は野村克也の息子である」との想いだったという。
そして、落ち込んでいる克則に野村監督は声をかける。
「マスコミとはうまくつき合っていかなくちゃダメだ。ときにはお前のほうから積極的に話しかけに行くぐらいの姿勢が必要だし、間違ってもマスコミの前で、ふて腐れた態度をとったりしちゃいかんぞ」