ぶら野球BACK NUMBER
他者の本の中のノムさんはリアルだ。
古田、片岡スカウト、吉井、克則。
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byKyodo News
posted2020/04/19 11:40
古田敦也と野村克也、2人の師弟関係の始まりは「眼鏡のキャッチャーはいらん」だった。
「眼鏡のキャッチャーはいらん」
美しき師弟関係だけでは語れない、監督と選手のちょっと危険な関係。こうして、昭和の名捕手の厳しい指導に食らいついた若者は、やがて平成最強捕手となり、野村ヤクルトは’90年代に4度のリーグ優勝を飾る強豪チームへと変貌していったのである。
振り返れば、野村と古田は、長嶋茂雄と松井秀喜のように相思相愛で始まった関係性ではなかった。立教大学でミスターの1年後輩にあたる元ヤクルトの片岡宏雄スカウト部長の著書『プロ野球 スカウトの眼はすべて「節穴」である』(双葉新書/2011年)によると、1989年ドラフト会議前に片岡がプロ向きの素材と目をつけた古田の指名を進言すると、監督就任したばかりのノムさんは拒否をする。
「眼鏡のキャッチャーはいらん。大学出の日本代表と言っても所詮、アマチュア。プロはそんなに甘くない。それなら元気のいい高校生捕手を獲ってくれ。わしが育てる」
ドラフト当日は8球団が競合した野茂英雄を逃したが、外れ1位は予定通り古田……と思いきや、「ピッチャーや、ピッチャーやで」という新監督の言葉に押し切られ、ヤマハの即戦力投手・西村龍次を指名。
それでも意地をはらない大人だった。
結局、ノムさんとぶつかりながらも無事に古田の2位指名を果たすわけだが、片岡は平成最初のドラフト会議を振り返り、こう皮肉っている。
「眼鏡のキャッチャーはいらない、と言ったはずが、いまでは『古田はわしが育てた愛弟子』にすり替わっている」
当然、古田もこの指名経緯は知っているだろう。だが、社会人経由の大人のルーキー捕手も、獲得に積極的ではなかった指揮官も互いに意地になることなく、ある部分では認め合う。同じユニフォームを着ると、それぞれの仕事をまっとうするリアリストであり、プロフェッショナルだった。