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ノムさんは紙面で“ヒマワリ”だった。
担当記者たちの追悼文に歴史が滲む。 

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プチ鹿島

プチ鹿島Petit Kashima

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photograph byKyodo News

posted2020/02/28 11:40

ノムさんは紙面で“ヒマワリ”だった。担当記者たちの追悼文に歴史が滲む。<Number Web> photograph by Kyodo News

楽天監督時代、始球式で沙知代さんのボールを受けるノムさん。スポーツ紙には追悼のコラムが溢れていた。

ノムさんに嫌われた記者の話。

 面白かったのはスポニチ。

「嫌われても、嫌われても書き続けた」と悼んだのは畑野理之氏('99年~'03年阪神担当)。

「私ほど野村監督に嫌われた記者はいないと思う」。それほどノムさんについて書いたが、しかし歴史を調べるとスポニチ自体が南海時代から報道でノムさんと激しくやり合っていたことを知り、「私が入社前から大ゲンカしていたとは……」。

 なぜスポニチがノムさんと合わなかったのか。その理由は他の記者のコラムでわかった。

《鶴岡さんが本紙評論家だったこともあり「スポニチは敵」が口癖だった。》(福澤孝哉)

 なんと、ここで鶴岡親分の名が。

 ちなみにこの福澤記者は'96、'97年のヤクルト担当だ。つまり20年経っても因縁を引きずっていたノムさんなのだ。歴史絵巻!

「ワシは死ぬまで野球がしたい」

 エピソードの圧巻はサンスポだった。

 野村克也の評論は'67年からサンスポで始まった。サンスポの大きな売りとなった「ノムラの考え」は昨年の日本シリーズ第4戦が最後の評論となった。つまり、'19年のプロ野球「最終戦」までノムさんは現役だったことになる。

 それほど関係が深かったサンスポだが、仰天する事実が書かれていた。植村徹也氏(元サンケイスポーツ編集局長、産経新聞特別記者)のコラムにそれは書いてあった。

 阪神監督招へいの舞台裏を書いているのだが、植村氏が「あなた、野村さんを連れてこれますか」と当時の久万オーナーに頼まれたという。しかもその時期は'98年のシーズン中。

 最初は「関西は怖い」と渋っていた野村克也だが、村山実さんのご遺体対面直後に、

「人間は死んだらああなるのか……。ワシは死ぬまで野球がしたい。ベンチに座っていて、そのままスーっと眠るように死にたい。誰かが気がついて『監督死んでるぞ』というような最期を迎えたいんや。(阪神監督を)受けるわ」

 これが1998年8月23日の夜。サンスポの植村氏はこのずいぶん前から阪神オーナーのオファーを仲介していたこともわかる。

【次ページ】 月見草どころか、ヒマワリだった。

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