月刊スポーツ新聞時評BACK NUMBER
ノムさんは紙面で“ヒマワリ”だった。
担当記者たちの追悼文に歴史が滲む。
posted2020/02/28 11:40
text by
プチ鹿島Petit Kashima
photograph by
Kyodo News
野村克也がヤクルトの監督に就任したときは本当に驚いた。
「ノムさん、ユニフォームを着る気があったんだ!」と。1990年のことである。
スーパー解説者だったノムさん。テレビ朝日で解説する日はストライクゾーンを表示した画面がテレビに出現。次の球はここです、と野村克也が予想するとピッチャーの球は面白いようにそこに投げられた。バッターの結果も予想どおり。「野村スコープ」は野球の屁理屈の楽しさを教えてくれた。
となると当時10代の私は素朴な疑問としてこう思っていた。
「こんなに野球理論が凄い人なのに、なぜグランドに復帰しないのだろう?」
そんなある日、書店で「監督 その栄光と挫折」(日本スポーツ出版社)というタイトルを見つけた。野球雑誌『ホームラン』'89年1月15日発行号であった。
読みもののひとつに「球界のナゾ 野村克也はなぜユニホームを着ないのか?」が。これだ、自分が読みたかったのは!
永谷脩氏のコラムに書かれていたこと。
「いま野球の奥深さを語らせたら、野村克也の右に出る人はそういまい。なのにこの人昭和52年に南海監督の座を追われて以来、一度も監督の座についていないのだ。どうかと思うような人がずいぶん監督になっているのに、これは球界の損失ではないだろうか?」
書いている人の名は「永谷脩(スポーツジャーナリスト)」とあった。
読み進めていくと「そこには二人のドンに支配される日本球界への深い絶望感がある」とある。二人のドンとは川上哲治と鶴岡一人だ。野村克也の場合、鶴岡氏との確執があったと。
なにしろ南海の監督を解任された野村は記者会見で、
「私は野球人でありながら、野球以外の評価で解任になったのは幸せです。私は鶴岡元老の手により南海を出されました」
とハッキリ口にした。永谷氏はこう続ける。
「今にして思えば、この発言がたたった。野村も若かった、あの言葉さえ言わなかったら、野村の前にはもっと別の野球人生が開けただろうというのは、世間智である。だが、私は、自己の不利をもかえりみず、そう叫ばずにはいられなかった野村の心情を思いやらずにはいられない」
関西のドンに公然と刃向った野村が「野球に対する情熱は衰えていないけれど、球界の体質にはナァ……」と寂しそうに言っているとも書き残していた。