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ノムさんは紙面で“ヒマワリ”だった。
担当記者たちの追悼文に歴史が滲む。 

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プチ鹿島

プチ鹿島Petit Kashima

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photograph byKyodo News

posted2020/02/28 11:40

ノムさんは紙面で“ヒマワリ”だった。担当記者たちの追悼文に歴史が滲む。<Number Web> photograph by Kyodo News

楽天監督時代、始球式で沙知代さんのボールを受けるノムさん。スポーツ紙には追悼のコラムが溢れていた。

伊東沙知代という女は1人しかいない。

 こんなドロドロの“政治事情”を読んだ私は、だからこそ、1年後にヤクルトスワローズの監督に就任した野村克也に驚いたのだ。

 今にして思えば関西とはしがらみのない「東京」「セ・リーグ」にヒントがあったとわかる。受託したノムさんも立派だったが球界の政治事情なんか関係なくオファーしてしまうヤクルトのノリに今も感動してしまう。

 では、野村克也さんの訃報翌日(2月12日)のスポーツ紙を読んでいこう。

 まず南海を追われたときのエピソードを書いたのはデイリースポーツ。

《'77年9月25日、シーズン2試合を残して野村さんは「女性問題、公私混同」を理由に監督を解任された。沙知代さんの“専横”が問題視された結果だった。オーナーらに囲まれ、「野球を取るのか、女を取るのか」と詰め寄られた野村さんは「女を取ります。仕事はいくらでもあるが、伊東沙知代という女は1人しかいない」とキッパリ。会見でも沙知代さんをかばい続けた。》

 ああ、サッチーがこの頃から「活躍」していたのだ。ノムさんとサッチーは東京へ行くが、こうして考えると後の「野村スコープ」は単なる偶然の産物ではなく、解説者として食っていくにはどうすればいいのかと考えた結果とも思える。

 解説革命は当時のマスコミの野球報道も変えた。

《試合経過をメインに選手の裏話、秘話を取り込むのが主流だった野球報道を、ノムさんの表舞台登場が一変させた。》(日刊スポーツ・2月12日)

 解説者として超一流だったノムさんはヤクルトの監督としても栄光を重ねた。人生の新しいステージ、チャレンジに勝ったのだ。

歴史の行間を感じさせるものばかり。

 訃報翌日。各時代の担当記者が書いた追悼文には私たちファンにはわからない、歴史の行間を感じさせるものが多々あった。

 日刊スポーツで南海担当('73~'80年)だった井関真氏はその後半で、

《書きたいことはヤマほどある。鶴岡親分や南海ホークスに対する誤解、離反していった人たちのさまざまな思い……。》

 と記している。

 どっちが善でどっちが悪とかの二元論ではない、人間の心情の複雑な交差があったことがここだけでもわかる。文の最後は、

《数年前、最後に会った日、野村さんは「あのころ(南海時代)が一番楽しかったなあ」とつぶやいた。》

 ああ……。

 同じく日刊スポーツの井元秀治氏('91~'93年ヤクルト担当)はID野球の奥深さを書きつつ、

《野球を離れた人生は理路整然にはほど遠かった。最大の理解者である沙知代夫人を立て、多くの「過去」と距離を置いていた。》

 この行間にもしみじみしてしまう。人生は複雑だ。そしていかにノムさんはサッチーを「引き受けていた」かも窺える。

【次ページ】 ノムさんに嫌われた記者の話。

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