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祝喜寿アントニオ猪木の伝説検証!(2)
カストロとモハメド・アリと湾岸戦争。
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2020/02/27 19:00
フィデル・カストロとの初めての出会い時には、カストロも愛飲したという日本酒で乾杯。2人とも心ゆくまで酔った。
アントニオ猪木は湾岸戦争時に何をやったのか?
ここでもう一度、猪木の湾岸戦争時の人質解放活動について、説明しておきたい。
日本の多くの人には、猪木というプロレスラーが起こした非常に突飛な行動に映ったかもしれないが、振り返ってみると、あの人道的活動は本当に偉大な行為だったと思う。
1990年8月、イラクのクウェート侵攻で始まった湾岸危機・湾岸戦争では、日本人を含む多くの国の民間人が人質になった。彼らは「ゲスト」とまるで客人であるかのように呼ばれていたが、あきらかにイラクがアメリカや多国籍軍からの攻撃に備えるための「人間の盾」だった。
そこで立ち上がったのが、猪木だった。
当時、人質になっている邦人の救出に躊躇していた日本政府に不満を抱いた商社マンの夫人たちが、個人的なルートで猪木に救いの手を求めてきていた。結局猪木は、その訴えに一個人として応える形でサダム・フセイン大統領との交渉に臨むことにする。
当時国会議員だった猪木は、日本政府に頼らず独自のルートで、人質解放への道を切り開こうとしたのだ。そのために、正式な儀式を経てイスラム教に入信し、“モハメド・フセイン・イノキ”と名乗るまでのことをやってのけていた。
1990年、猪木と共に紛争地帯へ乗り込んだ。
1990年9月、ついに猪木が最初の交渉のためにバグダッドへ乗り込む。
APのカメラマンは、毎朝バグダッドの街を走る猪木の姿を世界中に配信した。バグダッドでのその猪木の姿は、まだ平和の街の象徴であり得たと思う。
10月に猪木が2度目のバグダッドに入るとき、乞われて私も同行することにした。
私のパスポートにはイラクのビザが貼られた。この時のイラク政府はビザの発給を極端に制限していたから、日本メディア全体にとってもこのビザは貴重なものだった。そして、その時点でバグダッドに入れるのはヨルダンのアンマンから出ているイラク航空に限られていた。
イラク航空の同じ便でイラクの国会議員2人と乗り合わせた。このことが実に幸運だった。
1人は温厚な紳士然とした人物で、もう1人はピストルをベルトに挟んでいるような武闘派を感じさせる男だった。この時、この2人とイラクにおける猪木の政治的な活動についてさまざまな相談ができたわけである。