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祝喜寿アントニオ猪木の伝説検証!(2)
カストロとモハメド・アリと湾岸戦争。
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2020/02/27 19:00
フィデル・カストロとの初めての出会い時には、カストロも愛飲したという日本酒で乾杯。2人とも心ゆくまで酔った。
モハメド・アリとの不思議な友情。
モハメド・アリとの関係も、カストロ同様に不思議なものだった。
アリと猪木は1976年6月26日、日本武道館で3分15ラウンドの「格闘技世界一決定戦」を行っている。
アリは当時、WBA世界ヘビー級チャンピオンだったが、すでにして世界的にみてもボクサーを越えた存在となっていた。徴兵拒否、王座はく奪、回教徒となりカシアス・クレイからモハメド・アリに改名し――。
「蝶のように舞い、蜂のように刺す」などと言い放つ独特のビッグマウスは、常に世界中のマスコミで取り上げられ、話題になっていた。そして、アリが動けば、どこに行くにもその取り巻きが100人以上くっ付いてくる……というとんでもないVIP扱いとなっていた。
試合の前段階で、すでに2人はニューヨークと東京で激しい舌戦を繰り広げていた。
猪木とアリの15ラウンドは、当時「水と油のような試合」と多くの試合レビューで酷評されたが、長い時を経て再評価されるような緊張感溢れる名試合だった。
後にアリキックと呼ばれるようになる猪木のスライディング・ローキックでアリの太ももの裏側は血栓症となり、アリは入院を余儀なくされた。このことは、アリのボクサーとしての寿命を縮めた一因でもあるともされている。一方アリの有効なパンチは1発だけだったが、猪木の頭には大きなコブができていた。
どういうわけか、このマングースとハブのような奇妙な死闘の後、2人の間には不思議な友情が芽生えていた。
それは、同じマットの上で、信じられないほどの恐怖を分け合い戦った者にしか分からない特別な友情なのかもしれない。
アリも猪木も、人生で目指す所は同じだった。
アリの結婚式には猪木が招待されているし、アリがパーキンソン病を患った後でも、猪木はアリと交流を続け、最後までその不思議で熱い友情は途絶えなかった。
1990年のこと。サダム・フセインが引き起こした湾岸危機、戦争勃発一歩手前で騒然としていたイラクでは、2人とも自国の人質解放のために現地に赴き尽力した。この時のバグダッドでは1日違いで猪木とアリはすれ違いになってしまったが、1995年4月の北朝鮮の平壌で行われた「平和の祭典」にはアリも参加し、猪木と行動を共にすることができた。
当時、アリのパーキンソン病はかなり進行していたが、猪木の顔を見るやいなや表情が一瞬で引き締まり、スッとファイティング・ポーズを構えて凄んでみせるほど元気な姿を見せた。病が進行していたアリは、すでに公の場所ではほとんど会話をしなくなっていたのだが、その時の猪木とはしっかり「話した」そうだ。
ちなみに……この時、猪木の対戦相手として北朝鮮に行っていた米プロレス界のスーパースターであるリック・フレアーは、あの伝説のアリに会えたことを至極光栄に感じていたようだった。記念撮影など公的な場では、終始フレアーはアリを「Sir(サー)」と呼び続け、最大限のリスペクトを示してみせていたので、私も驚いた記憶がある。
アリは1998年4月に東京ドームで行われた猪木の引退試合にも、病をおしてやって来てくれた。
そんなアリも、2016年には亡くなっている。