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祝喜寿アントニオ猪木の伝説検証!(2)
カストロとモハメド・アリと湾岸戦争。
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2020/02/27 19:00
フィデル・カストロとの初めての出会い時には、カストロも愛飲したという日本酒で乾杯。2人とも心ゆくまで酔った。
世界に先んじて、猪木が人質解放の快挙を成し遂げた。
国際会議場で行われた「平和の祭典」の開会式では、フセイン大統領の息子でスポーツ大臣だったウダイ・フセインが猪木のスピーチを静かに聞いていた。
12月2日と3日の2日間にわたって開催された「平和の祭典」。サッカーも、音楽会も、プロレスも無事終わった。プロレスが行われた体育館では、まだ正式に解放はされていなかったが36人の日本人の人質が2階席から観戦していた。
猪木は現地活動の極端なストレスで足が腫れあがってしまい、「延髄斬りができないから」と言って試合こそしなかったが、人質解放に向けて、しっかりとした手ごたえを感じているようだった。
選手や関係者たちを帰国させるチャーター便がバグダッドの空港を離れる12月4日――猪木は空港まで行ったが、その便には乗らなかった。人質の夫人たちも「夫といっしょに帰るので」と言って、猪木と共にバグダッドに残ったのだった。
翌5日、日本人の人質の解放がイラク政府からアナウンスされた。
まず日本人の全36人(他に在留邦人5名も解放)が解放されてから、続いて他の国の全ての人質が解放されたのである。猪木の独力の活動が、日本だけでなく、国際的な快挙を成し遂げた瞬間だった。
解放された5日の夕刻。日本人の人質だった方々が市内のホテルに集まって、家族と対面した。
その時、夫人たちが言った。「猪木さん、アレやりましょうよ!」
そこにいた全員、まさに大歓喜の「1、2、3、ダァー!」だった。
翌日のバグダッドの空はきれいに晴れていた。
平和への感謝と戦争の恐怖。
その後、日本政府は邦人を帰国させるための政府特別機をアンマン(ヨルダン)まで飛ばすことを決定した。
アンマンの空港からJAL便が離陸すると……機内では自然に拍手がわきあがった。そして、すぐさまシャンパンでの乾杯が続いた。
あの時に全身で思いっきり感じた安全と平和への感謝の念を、私は生涯忘れることができない。
そして、年が明けると多国籍軍がイラク空爆で参戦。本格的な湾岸戦争が始まったのだ。