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PL学園野球部・研志寮の抑圧、忍耐。
理不尽の先の光と清原和博。 

text by

鈴木忠平

鈴木忠平Tadahira Suzuki

PROFILE

photograph byKatsuro Okazawa

posted2020/02/08 11:30

PL学園野球部・研志寮の抑圧、忍耐。理不尽の先の光と清原和博。<Number Web> photograph by Katsuro Okazawa

練習グラウンドに隣接した研志寮には、野球部の選手全員が暮らし、1つの部屋に3学年の選手数人が同居していた。

最低限の規則と付き人、上下関係。

 寮のロビーには教主直筆の「球道即人道」という屏風が置かれていた。人間教育の場であったため、野球部OBであるなしに関わらず、布教の中心を担う「教会長」を務めた者しか寮長にはなれなかった。

 そして後々に影を落としたのは、寮長は1階に住み込んでこそいるが、朝夕の祈りのあとに選手に話をする程度で、それ以外の時間は全く介入しないことだった。

「指導者とは押し付けず、考えさせ、選手の心に火をつけるという教えがあったんです。それがPLの強さでもあった。寮の規則は最低限ありましたが、付き人制度や上下関係の規律は生徒たちの間で決められていったものだったと思います」

 谷鋪自身も1966年度卒の野球部OBであり、研志寮で3年を過ごした。

「今から考えれば、辛いものが残るだけだったような気もします……」

 広大な教団敷地内には病院もスーパーもあり、外とは隔絶されていた。教団の広告塔という使命を背負った選手たちは、大人の手が入らない閉ざされた空間で次第に上下関係をエスカレートさせていった。

 野々垣武志が過ごした1987年からの3年間というのは、あとから振り返れば、PL野球部が頂点からゆっくりと下っていく分岐点だったのかもしれない。

野々垣少年を魅了した清原の本塁打。

 14歳の夏、奈良・桜井の実家で夏の甲子園決勝戦を見た。6回裏にPL学園の4番清原がバックスクリーン左に放ったのは同点弾だったが、野々垣少年にはなぜかそれが逆転ホームランのように見えたという。

「あれで勝ったと思いました。打者は状況を自分でコントロールできないはずなのに、清原さんはなぜか勝負を左右する場面で必ず打席がきて、そこで本当に打つ。あの時、僕はPLに入ると決めたんです」

 ただ、夢の前には過酷な研志寮での現実が待っていた。装飾を排した平面に、さほど大きくない窓が並んだ無機質な灰色の建物が、異様な圧力で新入生を迎えた。

「毎日必死でした。最初は1回で返事をしなかったと怒られ、そのうちに返事はしたけど、顔や背中に不服な態度が出ていたということで怒られるんです。『カオ』とか『セナカ』とか呼ばれるミスです」

 誰かに何らかの落ち度があれば、連帯責任だ。寮内に抑揚のない放送が流れる。

『1年生の皆さんは至急、娯楽室に集合してください』

【次ページ】 「娯楽室」で10分、20分、30分。

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