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PL学園野球部・研志寮の抑圧、忍耐。
理不尽の先の光と清原和博。

posted2020/02/08 11:30

 
PL学園野球部・研志寮の抑圧、忍耐。理不尽の先の光と清原和博。<Number Web> photograph by Katsuro Okazawa

練習グラウンドに隣接した研志寮には、野球部の選手全員が暮らし、1つの部屋に3学年の選手数人が同居していた。

text by

鈴木忠平

鈴木忠平Tadahira Suzuki

PROFILE

photograph by

Katsuro Okazawa

 1980年代中盤に高校野球で圧倒的な強さを誇ったPL学園。その原点となったのは自主練習が中心の合理的な練習と理不尽の塊ともいえる研志寮での抑圧だった。表裏一体の世界に挑んだ彼らが見た現実とは。
 Number983号(2019年7月25日発売)の特集から特別に全文掲載します!

 そこにはもう夢の跡すらなかった。

 平成最後の2月、片岡篤史は久しぶりに大阪・富田林にある母校PL学園を訪れた。グラウンドに人影はなく雑草が伸びていた。そして、バックスクリーンの向こうにそびえていた「研志寮」がちょうど重機によってコンクリート塊となり、さらに粉々に砕かれているところだった。

「僕たちが生死をかけた場所がね……。なんか涙が出てきた……」

 全寮制の中で、1年生が先輩の身のまわりを世話する独特の「付き人制度」が苛烈な上下関係を生んだ。大袈裟ではなく、本当に1日を生き残るのに必死だったという。

「1年生は笑ってはいけない。調味料を使ってはいけない。風呂では桶もシャンプーも使ってはいけない。何が理不尽なのかもわからず受け入れるだけだったし、疑問を抱いているような余裕もなかった」

泣きながら「俺たち世間に帰れる!」

 朝6時、先輩と同じ4人部屋で目覚まし時計が鳴らぬうちにそっと起きる。炊事をし、食堂では壁を背に直立不動で先輩のお代わり、お茶注ぎのタイミングに神経を尖らせる。最後に自分の飯を5分でかきこんで学校に走り、終業と同時に今度は寮に走る。練習を終えた夕刻、ヘトヘトの体で炊事、洗濯、夜食の用意やマッサージをし、禁止されていた菓子をこっそりと口に入れ、時計の針がとうに0時をまわってから泥のように眠る。体の上を這うゴキブリを払いのける体力さえ残っていなかった。

「実際に逃げた奴もいるけど、ほとんどは『絶対逃げたんねん』『明日、辞めたんねん』と言いながら、次の日にはまたグラウンドへ行く。年に一度の正月休みに向けた帰省カレンダーというのをみんながつけていて1日1日を塗り潰していった。帰る前の日には屋上で泣きながら抱き合った。『俺たち世間に帰れる!』って言うて。僕ら学園の外のことを『世間』と呼んでいたから」

 待望の帰省。片岡は京都・久御山へ帰る前、梅田駅で立浪和義ら1年生の仲間と喫茶店に寄った。糖分に飢えていたからコーヒーには飲み終わったあとも分厚く堆積するほどの砂糖を入れた。実家の食卓では白米にこれでもかというほどマヨネーズをかけた。両手いっぱい菓子やデザートを抱えたが、なぜか、あの寮内でこっそり食べる時ほどの甘さも幸せも感じなかった。

「今、考えたらおかしいのかもしれない。でも当時はあの理不尽を乗り越えるからこそPLは日本一なんだと、だから夢が叶うんだとしか考えていなかった」

【次ページ】 片岡の礎は土埃にまみれた1日1200球。

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