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PL学園野球部・研志寮の抑圧、忍耐。
理不尽の先の光と清原和博。
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byKatsuro Okazawa
posted2020/02/08 11:30
練習グラウンドに隣接した研志寮には、野球部の選手全員が暮らし、1つの部屋に3学年の選手数人が同居していた。
楽しかったのはグラウンドだけ。
14歳の夏に見た放物線が野々垣を野球に引き戻した。世代の4番を打ったが、甲子園には一度もいけなかった。最後の試合、なぜか涙が出なかったこと、上級生に向かっていった彼がスタンドからその試合をじっと見つめていたことを妙に覚えている。
「楽しかったのはグラウンドだけ。竹バットの芯でとらえた打球がフェンスの向こうに消えていく。その一瞬だけです……。ただ僕はプロに行けたので、まだ良い方です」
卒業後はドラフト外で西武に入団し、残光を求めるように清原を追いかけた。
広島、ダイエー、台湾と渡り歩いて引退した。野球以外の仕事に就いたこともあった。社会に触れるたび、なぜ自分はここまで偏った人間なのだろうと煩悶した。
「何時に寝ても朝早く目が覚めてしまいますし、飯も5分で食べる癖がついています。会議で年上の人が発言すれば、黙ってそれに従ってしまう。社会人としてどうかと思うことはあります。それに……僕、やっぱり野球のことしか考えられないんです」
「僕らの頃のような伝え方ではダメ」
今、野々垣は清原の社会復帰を野球で支援する活動に奔走している。気づけば、またPL学園で見た夢に戻っている。そこでしか自分らしくは生きられないのだ。
プロ野球界の指導者となっている片岡は最後に遠い目をして、こう言った。
「みんな歩んできた人生の中にそれぞれの規律やルールがあって、そこから何を得たかは共有した人にしかわからない。PLで過ごした者にしかわからないものがある。ただ、今は僕らの頃のような伝え方ではダメ。時代の流れです。これからは自分たちが得たものをどう伝えていくかなんです」
まだ足りないものだらけだった時代、それゆえ過剰な熱があの場所に集まり、若者たちの夢となり、絶望となった。
砂塵になった研志寮の光と影は、あの時を過ごした者たちの心で生き続ける。
(Number983号『[昭和の象徴を問う]PL学園研志寮 理不尽の先の光と清原和博。』より)