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PL学園野球部・研志寮の抑圧、忍耐。
理不尽の先の光と清原和博。
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byKatsuro Okazawa
posted2020/02/08 11:30
練習グラウンドに隣接した研志寮には、野球部の選手全員が暮らし、1つの部屋に3学年の選手数人が同居していた。
片岡の礎は土埃にまみれた1日1200球。
片岡が入学した1985年のPL学園はまさに絶頂期だった。3年生には甲子園のスターである桑田真澄、清原和博がいた。彼らは最後の夏、5期連続甲子園出場のドラマを完結させるかのように全国の頂点に立った。1年生の片岡たちはPLのユニホームが放つ輝きを誰より間近に見た。だからどんな地獄も、すべて栄光へのハードルだと思うことができたのかもしれない。
そして、グラウンドに出れば、日本一と呼ぶべき質の高い野球と自由競争があった。
「先輩たちは本当にうまかったし、1年生も一緒に練習できた。それに僕らは寮で緊張して目配りの訓練をしているせいか、打者がバットのグリップを何ミリ持ち替えた、野手が何センチ守備位置を動いたという変化がだんだん見えるようになってきた」
監督の中村順司はピィンと張りつめた全体練習をきっちり3時間半で終えると、あとは自主練習としていた。
「あの時間がPLの強さ。1年生は自主練の打撃投手をやるんだけど、僕は大会前にいろいろな先輩から投げてくれと言われて朝9時から夜の10時まで室内練習場で投げ続けたこともあった。陽の光を浴びていないのに顔は土埃で真っ黒。1箱150球を8箱投げていた。苦手なコースに投げたらしばかれるから、先輩の得意なコースに、見やすくて回転のいい球を投げる。そのうちにスローイングのコツがわかってきた」
つまり、光はいつも理不尽の向こう側にあった。長く控えだった片岡は3年春に、あるポテンヒットから打撃の真に触れ、夏は4番として甲子園春夏連覇を果たした。
大学を経てプロ入りし、内野手として獲得した3度のゴールデングラブ賞は土埃にまみれた1日1200球が礎だった。
プロ生活の転機となった1994年オフ、野手として例のない右肘靭帯再建術に踏み切ったのも、打におけるわずか数cmの誤差を体が察知できたからだった。
「後から考えると理不尽と思っていたことから覚えたものって確かにあるんです」
KK時代に寮長を務めた人物の記憶。
PL学園野球部60年。桑田や清原、片岡や立浪のように寮での忍耐を成功体験へと昇華できた者もいれば、その裏で、耐えきれずに潰れていった者もいた。
その光と影を近くで見つめていた人物がいる。初めて全国制覇した1978年と、KKの時代に寮長を務めた谷鋪哲夫である。
「2代目の御木徳近教主がPL教団の名を全国に広めるため、特に野球に力を注ぐと決め、1960年代初めの頃に研志寮がつくられたと記憶しています」