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なぜ日本のスケートボーダーは、
わずか数年で世界的に強くなったのか?
text by
吉田佳央Yoshio Yoshida
photograph byYoshio Yoshida
posted2019/12/28 08:00
左から、2012年時の増田竜万、堀米雄斗、池田大亮。幼い時から、家族や周囲の協力もあってスケートボードに親しめた世代の選手たち。
才能ある選手の海外派遣プラン。
しかし、彼らが最初から世界で勝てていたのかというと……決してそんなことはない。その土台には2000年代から始まった、選手の海外派遣プランがあったのだ。
「協会としては'95年に年間を通したシリーズ戦の形ができ上がり、2000年には過去最高の選手エントリー数を記録して大きな盛り上がりを見せたことで、ひとつのシーンの確立を実感しました。
そこで次のステップとして取り組んだのが選手の海外派遣だったんです。
ただスケートボードの世界には、トニー・ホーク(“スケートボードの神様”と言われるレジェンド。あのショーン・ホワイトも彼のカンパニーに所属している)のお父さんがやっていた『NSA』という協会が'80年代に消滅して以降、サッカーでいう『FIFA』のような世界を統一する協会がありませんでした。
それでも当時から個人で海外挑戦している日本人選手はいたので、協会の海外担当理事を通して『AJSAの国内プロ大会で日本チャンピオンを決めるから選手を大会に出場させてほしい』と様々なイベンターにアポイントをとってみたんです。その結果、日本人で初めて『STREET LEAGUE』に出場した瀬尻稜を派遣することに成功しました。そして瀬尻が海外で孤軍奮闘して結果を残してくれたことで、彼に続く堀米雄斗達の世代の成功に繋がったのではないかと思います」
徐々に確立された世界への挑戦の道。
現日本代表チームのコーチである早川大輔氏は、堀米雄斗に代表される次世代の選手達の台頭に大いなる可能性を感じていた。
もちろん彼らの夢は本場のアメリカでプロスケーターになること。それであれば、現地のコンテストに出て結果を残すのが手っ取り早い。そこでアマチュアスケーターにとっては世界最大のコンテストである「Tampa AM」の出場を目指し、まずはその出場権が獲得できるコンテストの「Damn AM」に彼らを出場させるところからスタートし、毎年挑戦を続けていった。そうすることで最初は結果が出なかった選手たちも徐々に海外の空気に慣れていき、好成績を残せるようになっていった。
現在では彼らの功績も手伝ってその「Damn AM」が日本でも開催されるようになっただけでなく、「ARK LEAGUE」や「FISE」といった世界戦も開催されるようになった。そして彼らの後を追うように、また新たな世代が夢を掴むためにアメリカへと挑戦する流れもでき上がっている。
このような時代の流れは日本のスケートボード業界にも様々な影響を与えている。
スケートパークやスクールなど環境面での充実はその典型的な例で、2000年代にポツポツとでき始めたスケートパークは、2010年代に入るとその数が飛躍的に増え、同時に長年シーンを引っ張ってきた元選手たちによるスクール事業なども増えていった。
こうした日本のスケートボードシーンの歩みがそのまま業界の成熟につながり、次世代を担うスター候補が次々と生まれているのが今なのである。その様相はまるで昨今のフィギュアスケートのようで、今後日本勢が世界の舞台から後退していくことは想像できないと言えるほど充実していると言える。