フランス・フットボール通信BACK NUMBER
ヘルタとウニオンがついに対戦。
悲願を叶えたベルリン・ダービー。
text by
パトリック・ソウデン&アレクシス・メヌーゲPatrick Sowden et Alexis Menuge
photograph byThomas Wattenberg/picture-alliance/Presse sports
posted2019/12/23 11:00
1990年にベルリンのオリンピアシュタディオンで開催された、壁崩壊後では初となるベルリン・ダービーの入場シーン。
社会主義国家に囲まれた陸の孤島。
西ベルリンは、東ドイツという社会主義国家に囲まれた陸の孤島だった。
その特異な状況が、1892年にクラブが設立され、1963年のブンデスリーガ創設のオリジナルメンバーでもあるヘルタの発展を阻害した。
西ドイツという国家は再建されたが、ベルリンの立ち位置は特別で、サッカーに関しても、クラブが発展したのはミュンヘンやフランクフルト、ルール地方といった、投資が簡単にできる経済活動が活発な地域だった。
一方、東ドイツでは、サッカーをより効率的に進化させていくための政策がとられた。
東ベルリンには3つの1部リーグ所属クラブが置かれた。ひとつがフォルベルツ・ベルリンで、もともとはライプツィヒのクラブであったのが当局によりベルリンへと移転された。
ふたつめがディナモ・ベルリンで、シュタージ(国家秘密警察)のサポートを受けていた。
シュタージ長官のエーリッヒ・ミエルケは、ディナモ・ドレスデンから選手を大量に引き抜き、その後1979年から'88年までリーグ10連覇を成し遂げるが、民衆の人気は得られなかった。
そして3つめが1966年に設立されたウニオン・ベルリンである。
1906年創設のウニオン・オーバーシェーネバイデに端を発するが、ウニオン・オーバーシェーネバイデ自体が東西ドイツ分裂により1949年にふたつに分かれていた。
「ウニオンには独自の伝統と価値、歴史が」
以上のように東ドイツのクラブ事情は複雑だった。
国家の影響、当局の利益――それがプラスであれマイナスであれ――に関わることなくクラブは存続できなかったのだった。
ウニオンが東ドイツで占める位置は特別だった。
「ウニオンには独自の伝統と価値、歴史がある」とハーディー・グリュネは指摘する。
「ケーペニック地区に自分たちのスタジアムを建設して以降、クラブは本拠を移していない。当局の覚えはめでたくはなかったが、逆に民衆からは熱心に支持された」