フランス・フットボール通信BACK NUMBER
ヘルタとウニオンがついに対戦。
悲願を叶えたベルリン・ダービー。
text by
パトリック・ソウデン&アレクシス・メヌーゲPatrick Sowden et Alexis Menuge
photograph byThomas Wattenberg/picture-alliance/Presse sports
posted2019/12/23 11:00
1990年にベルリンのオリンピアシュタディオンで開催された、壁崩壊後では初となるベルリン・ダービーの入場シーン。
ドイツ中から観客があつまり統合を心から喜んだ。
ベルリンに数あるアマチュアクラブのひとつであるロタツィオン・プレンツラウアーベルクの監督を務めるオラフ・ザイアーは、30年前はウニオンのキャプテンを務めていた。彼が当時を回想する。
「ベルリンの壁崩壊からしばらく後におこなわれたヘルタ戦(1990年1月27日)の狂騒を今もよく覚えている。試合の週はメディアの取材がひきも切らなかった。東側の選手には初めての経験だった」
それは壁によって隔てられたふたつのクラブにとって初めてのダービー(親善試合)だった。チケットはすべて均一価格で5マルク。東西どちらのスタンドも同じだった。
「スポンサーのロゴが入ったユニフォームと、特定のメーカーのスパイクを着用するように求められたが僕らは拒否した」と、ゼイアーが振り返る。
「オリンピアシュタディオンのピッチに入場したとき、5万人を超える観衆に迎えられた。片側は青(ヘルタのチームカラー)、もう片側は赤(ウニオンのチームカラー)一色に染まっていた。ドイツ中から観客があつまり、統合を心から喜んでいた。悪質なプレーは一切なく、結果はヘルタの勝利(2対1)だったが、真の勝者はベルリンだった。試合後、僕らは一緒に食事をした」
東西に分断されたヘルタのサポーター達。
歴史家のハーディー・グリュネが当時の状況を説明する。
「あの頃は両クラブのサポーターの間に本物の友情が存在した。'90年1月の試合はその頂点だった。その後、友情は次第に衰えて、とりわけ2000年代になると、2部リーグにおいて両者のライバル関係は激化していった」
第二次世界大戦と東西冷戦という戦争が、ふたつのクラブの運命を分けた。
1961年8月12日夜から13日朝にかけて、ヘルタのスタジアムのすぐわきに築かれた壁がその原因だった。ヘルタサポーターの一部は、壁の東側に分断されてしまった。
当時を知るものは次のように証言する――試合の夜になると立ち入り禁止区域まで出かけていった。抗議の声をあげるためだったが、壁の向こうからも、同じような声が聞こえてきたのだ――という。その風習は、ヘルタが本拠地をオリンピアシュタディオンに移すまで続いた。