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扇原貴宏「マリノスを常勝軍団に」
10年目で掲げた初めてのシャーレ。
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byGetty Images
posted2019/12/10 15:00
ボランチでコンビを組んだ喜田とともにシャーレを掲げた扇原。怪我から始まったプロ生活、10年目でようやく初タイトルを掴んだ。
クルピに期待され、五輪にも出場。
翌2011年、彼の背番号は24から2に変更された。1試合も試合に出ていない選手に対する、異例と言える若い背番号への変更。周囲の期待の高さが窺えた出来事でもあった。当時、C大阪を率いていたレヴィー・クルピ監督は、プロ2年目の彼をこう讃えていた。
「タカはパスもうまい、シュートもうまい、技術も高い。そして185cmもあって、高さと強さがある。今は経験を積ませている最中。プロとして成功を収める、次なる候補だと思っている」
C大阪では主にボランチとCBで起用され、その才を磨き、ロンドン五輪を目指すU-22日本代表でもボランチとして定着。翌年のロンドン五輪にも出場し、不動の地位を築き始めた。
「中盤でタッチ数を少なく、サイドに散らすことが自分のプレースタイルに合っていると感じています。個人的にはアンカーでありアタッカー。ゲームを作れるし、相手をつぶせる選手が理想です。今思うと、これまでいろんなポジションを経験してよかったと思っています。それぞれのポジションの選手の気持ちが分かるので」
当時の彼は、プロとして自分の存在感を発揮できる場所を見つけ、充実した表情を浮かべていた。
今季も怪我で苦しんだ。
しかし、怪我を経験した後のサッカー人生も決して順風満帆ではなかった。2016年シーズンは出番が激減し、その年の7月に長年在籍したC大阪を離れ、名古屋グランパスに完全移籍した。だが、移籍2試合目の鹿島アントラーズ戦で負傷交代すると、左第3および第4腰椎横突起骨折で長期離脱。シーズン終盤に復帰するも出番はなく、翌年にマリノスへの完全移籍を決断した。
横浜FMに来てからはコンスタントに試合出場を重ねたが、完全なるレギュラーにまではたどり着けなかった。移籍2年目の昨年は、リーグ29試合にスタメン出場。アンカーとしてついに定位置を獲得したかと思われたが、今季は開幕から喜田拓也がアンカーのポジションに入り、第11節までスタメンは1回、プレー時間も100分強程度と苦しんでいた。
チームが第12節ヴィッセル神戸戦から中盤の底にダブルボランチを配置する4-2-1-3にシフトチェンジしたことで、喜田と並んで出場する機会が増え始めた。第14節の湘南ベルマーレ戦まで3試合連続スタメン出場と波に乗り始めた矢先、その湘南戦でまさかの負傷。右膝内側側副靱帯損傷の全治6週間と診断された。