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引退・明神智和の魂は今もガンバに。
遠藤保仁、山口智、藤春廣輝の秘話。
text by
下薗昌記Masaki Shimozono
photograph byGetty Images
posted2019/12/06 11:50
明神智和(右端)と遠藤保仁。ガンバ大阪の魅力的な攻撃スタイルのど真ん中には常にこの2人がいた。
ヤットが「17番」を身に着けた日。
2016年1月1日の天皇杯決勝戦――。
味の素スタジアムで浦和レッズを2-1で下し、天皇杯連覇を飾った直後の表彰式でのこと。当時キャプテンだった遠藤は、高円宮妃殿下から受け取った優勝カップを掲げる直前、金正也(現ベガルタ仙台)にカップを一旦預けると、くるりと反転し、ガッツポーズ。
そのユニフォームには「MYOJIN」の名と背番号17が刻み込まれていた。
2003年以降、ガンバ大阪では一貫して7番を背負い続けてきた遠藤が唯一、異なる数字を身につけた瞬間だった。
「何年間か、ガンバでキャプテンでやっていたし、明さんがクラブから去るのは皆が知っていた。いい時のガンバを陰で支えてくれていたし、チームにとってもクラブにとっても欠かすことのできない選手だった」
その年限りで退団が決まっていながらも、決勝戦のベンチに入れなかった明神への感謝と惜別の思いを込めた遠藤流のメッセージだったのだ。
遠藤、二川、橋本と「黄金の中盤」。
ガンバ大阪が悲願のリーグ制覇を果たした翌年の2006年、柏レイソルから加わった明神は遠藤や二川孝広(現FCティアモ枚方)、橋本英郎(現FC今治)とともに「黄金の中盤」を形成。西野朗監督(現タイ代表監督)が作り上げた攻撃サッカーに欠かせない存在であり続けた。
抜群の危機察知能力と、圧巻の運動量で危険地帯をカバーする。「2点取られたら、3点を、3点取られたら4点を」をポリシーとした当時の西野ガンバにおいて、リスクマネージメントを託されていたのが明神だった。