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モロッコサッカーの礎、ハッサン2世。
「全体主義的サッカー」の記憶。
 

text by

クエンタン・ミュレール

クエンタン・ミュレールQueentin Muller

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photograph byL'Equipe

posted2019/11/11 11:30

モロッコサッカーの礎、ハッサン2世。「全体主義的サッカー」の記憶。<Number Web> photograph by L'Equipe

試合前の選手たちに1人ひとり握手をし、激励を送るハッサン2世(写真右)。モロッコがサッカー強国となる礎を築いた。

ベンチ内にも影響した国王の意向。

 ラバトの小粋なカフェで「その男」は待っていた。70年代にストライカーとして活躍した彼は、帽子を目深にかぶり匿名を条件に取材に応じた。逝去から20年がたった今も、前国王について語ることの影響を恐れていた。

 彼が《陛下》と今も呼ぶ人物は、彼のサッカー人生に大きな影響を及ぼした。それは1993年10月10日、ザンビアとの間でおこなわれたワールドカップ予選でのことだった。

「まずわかって欲しいのは、当時のベンチには常に電話が置かれていて、専任の交換手が国王からの通話を監督や選手に繋いでいた。その日、私は負傷のためベンチに座っていた。ハーフタイムになって、ロッカールームに下がろうとしたときに国王からの電話が鳴った。交換手が受話器を取るのを躊躇ったのは、彼もまた恐れていたからだろう。彼は私に代わりに電話に出てくれるように頼んだ。私はこう言い返した。『マジか、あり得ないだろう。出ていったい何て言えばいいんだ?』。電話はずっと鳴り続けていたが、最後まで無視したよ」

 彼が思い出すのは、同じ日の練習が終わりに近づいたときの出来事である。

「国王がピッチサイドにやって来て、監督に数分でいいから頸椎用のコルセットを着用してプレーするように指示した。彼によれば選手が試合中足元ばかり見てプレーするから、それを矯正する必要があるということだった。眩暈がしてきたけどその通りにしたよ!」

「練習は軍事教練以外の何ものでもなかった」

 ラバトの高級住宅地であるエィリャドの街角で、金のチェーンがついたサングラスをかけた人物がゆっくりと近づいてきた。彼は私の前に座るとおもむろにカフェオレを注文した。

 その人物の名はアブデスラム・アドリ。

“ジナヤ”のニックネームで知られるアドリは、フランスの保護領から独立を果たした後の1958年に、わずか19歳にしてモロッコ代表キャプテンになったのだった。ジナヤこそはモロッコがアラブ世界とアフリカで強豪国のひとつになっていく際の、支柱となった選手のひとりだった。

 当時のモロッコにはサッカーに関して見るべきものは何もなかった。そこで、ハッサン2世はテコ入れを決意したのだった。

 1958年に彼は自身のクラブである「王立軍(FAR)」を立ち上げる。サッカーとハッサン2世について、アドリがおもむろに語りはじめた。

「練習のとき彼は、いつも私たちに棒のぼりの要領でゴールポストを登るトレーニングを命じた。他にもぬかるみの中を匍匐前進するなど、軍事教練以外の何ものでもなかった。国内リーグの公式戦は2部リーグからのスタートだったが、私たちはすべてのチームを粉砕した」

【次ページ】 自国大会のために世界の強豪クラブを呼んだ国王。

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