フランス・フットボール通信BACK NUMBER
モロッコサッカーの礎、ハッサン2世。
「全体主義的サッカー」の記憶。
text by
クエンタン・ミュレールQueentin Muller
photograph byL'Equipe
posted2019/11/11 11:30
試合前の選手たちに1人ひとり握手をし、激励を送るハッサン2世(写真右)。モロッコがサッカー強国となる礎を築いた。
自国大会のために世界の強豪クラブを呼んだ国王。
ハッサン2世は将軍たちに、あらゆる軍事施設においてサッカーの大会を組織するように命じた。
クラブ創設から4年後の1962年までに、FARは7つのトロフィーを獲得するに至った。
この1962年にはじめておこなわれたカップ戦の「モハメド5世杯」に、ハッサン2世は世界的に有名なチームを招待した。
モロッコチャンピオンのFARの他に参加したのは、アルベール・バトー監督率いるスタッド・ランスとアルフレッド・ディステファーノ監督のレアル・マドリー、そしてエレニオ・エレラ監督のインテル・ミラノだった。
国王が絶賛したレアル戦の勝利。
「初戦のランス戦は0対5で敗れた。次のレアルとの試合では、もっといいプレーができることを示したかった。国王が僕らを奮い立たせた」とジナヤが振り返る。
そのかいあってか、次の試合ではFARがレアルをリードしてハーフタイムを迎えた。選手たちの奮闘に興奮冷めやらぬハッサン2世は、次のように走り書きしたメモ用紙を監督のもとに届けさせた。
「完璧だ。素晴らしい。われわれは愚かではない。(アブドゥルカデル)ムフタティフは重過ぎる。だからムスタファをセンターフォワードに上げて、プレーを十分にサポートするように」
ところが皮肉なことに、後半に3得点を挙げたのは愚鈍の誹りを受けたムフタティフだった。最終スコアは4対3。1962年8月26日、レアル・マドリーに対して打ち立てたこの勝利により、FARは国際的な名声を獲得した。最高のアンバサダーの役目を果たした選手たちを、国王は最大限にねぎらった。
「私たちはサラリーを貰っていなかったので、代わりに夏季休暇が与えられた。陛下は私たちを望みの場所に連れて行ってくれた。パリでは『リド(高級キャバレー)』で美女を鑑賞した。午後にはブレザーを着用し、夜は正装のうえ高級時計を腕に外出した」と、ジナヤは当時を懐かしんだ。
FARの選手たちがバカンスを満喫しているころ、ランスの選手たちはモハメド5世杯を掲げて優勝の歓喜に浸っていた。それは1950年代に栄華を極めたランスにとって最後の栄光のひとつであり、ハッサン2世の力なくしてはあり得ない成功でもあった。