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世界の名騎手が次々と「ユタカ!!」。
武豊が鞭1本で海外挑戦し続ける理由。
text by
平松さとしSatoshi Hiramatsu
photograph bySatoshi Hiramatsu
posted2019/11/08 20:00
BCスプリントは最下位の8着に敗れたマテラスカイ。武豊は「挑戦し続ければチャンスはある」と振り返った。
米国の関係者も「なんで来たの?」
その前年には8年連続10度目となる全国リーディングジョッキーの座を獲得した武豊騎手。1999年に記録した178勝という勝利数は1人のジョッキーが1年間で記録した勝ち数としては当時のJRA新記録にあたり、しかもその時点で、自身が築き上げた記録を4年連続で更新する勝利数でもあった。
そんな円熟期に、彼は勇躍、アメリカへ飛び立った。
ロサンゼルス市内から北東にあるパサディナという街に家を借り、そこから真東に位置するサンタアニタパーク競馬場を主戦場としてアメリカ競馬に挑戦したのだ。
野球におけるメジャーリーグや、サッカー選手の海外挑戦も今では当たり前になっているが、当時はまだ珍しい存在。まして競馬のジョッキーとなると、ほとんど稀有といって良い存在である。
他のスポーツと違い、競馬の場合、世界のどこよりも賞金が高く、ゆえに稼げる国が日本なのだから、それも当然の事だった。当時を述懐して、武豊騎手は語る。
「よく現地の関係者に『なんで来たの?』と言われました。日本にいれば稼げるのに、って不思議そうな顔をされました」
「鞭1本あれば世界中で乗れるわけです」
しかし、日本のナンバー1ジョッキーはお金ではない“何か”を掴みたかったのだ。
「鞭1本あれば世界中で乗れるわけですからね。経験を増やせば自分のスキル向上につながるし、せっかくなら世界のあちこちで乗ってみたいという気持ちはずっと持っていましたので、それを行動に移しただけ。自分としては何も不思議な事をしているつもりはありませんでした」
さらに続ける。
「日本ではない場所に行って様々な面白い経験をする事で、騎手としてだけではなく、人間としても大きくなれると思います。そういう意味でも、海外挑戦はすべきだと考えていました」
2000年にアメリカの西海岸をベースとした彼は、翌年からの2年間、つまり2001、2002年、今度はフランスに腰を据えて乗り続けた。そういった積み重ねが彼を世界レベルのジョッキーへと昇華させたのは疑いようがない。
今回のブリーダーズカップでも、L・デットーリ騎手やM・スミス騎手、R・ムーア騎手といった世界的な名騎手達が「ユタカ!!」と言って握手を求めてきた。
また期間中、アイルランドのエイダン・オブライエン調教師やイギリスでエネイブルを管理するジョン・ゴスデン調教師にインタビューさせていただく機会もあったのだが、彼らも一様に「ユタカ・タケ」の名前を挙げた。