ファイターズ広報、記す。BACK NUMBER
ある会食で渡された一枚の戦闘服。
日本ハムの頂点には栗山監督がいる。
text by
高山通史Michifumi Takayama
photograph byKyodo News
posted2019/09/03 12:50
自力でのCS進出の可能性は消えたが、栗山監督は「ここからなので。全部勝てば何かが変わるだろう」と前を向く。
垣間見えた人間としての面。
詩の要旨からは掛け離れるが、栗山監督の「闇」の部分を紹介したい。ユニホームをまとったグラウンドからは見えない、人間としての面である。
ここからは、栗山監督と私とのエピソードになる。あくまで、人となりを表す一例であることは断っておく。
2016年、冬。雪が積もり、寒さ厳しい12月だった。
本来はオープンにすべきことではないが、もう時効だと思うので記す。
当時、前職のスポーツ紙の記者を辞すことが決まっていた。その約1カ月後の年明け、2017年1月から転職先が北海道日本ハムファイターズへと内定していた。栗山監督も風の便りで、知っていたようだ。
同じ取材チームの後輩記者を通じて、面会の誘いを受けた。栗山監督が生活拠点を置く、栗山町内での会食だった。記者時代には何度か、他社の記者も同席してのランチなど会食する機会に恵まれたことはあった。快く、食事をともにさせていただいた。
その時の誘いは会社も、記者から広報へと立場も変わるため躊躇した。それでも、とお話をいただいたので、取材チームの後輩記者たちと食事をさせていただいた。
こちらは少しお酒もいただき、宴もたけなわのタイミングだった。
栗山監督が取り出したユニホーム。
栗山監督は後方にあった袋を、手元へと引いた。おもむろに、その中からユニホームを取り出したのである。そして、差し出された。
「来年から、一緒にファイターズをよろしくお願いします。力を貸してください」
栗山監督が初めて日本一になったシーズンに、着用した戦闘服の1つをいただいたのである。ほかにも、いろいろなアイテムを頂戴した。あまりに驚き、遠慮することができなかった自分を今でも恥じる。あえて、だろう。サインも入っていない、純度100%のユニホームだった。そして、身に染みる言葉である。
その時の感情、感覚は今でも記憶に残る。お宝グッズを手にしたという喜び、うれしさは一切、なかった。それは今、思い出しても不思議なくらいである。
転職して、新たな世界へと足を踏み入れていく――。
そこで、しっかりと使命と責任を感じ、やらなければいけないという思いが、自然と芽生えたのである。栗山監督からのメッセージ、と勝手に受け止めた。そう受け止める空気でもあった。
心身が引き締まった。陳腐に表現すれば、人生の再スタートへ向けて気合を注入してもらった。背筋が伸びる、そんな感覚だった。