競馬PRESSBACK NUMBER
凱旋門賞に日本馬3頭出走の可能性。
20数年前は想像しなかった海外志向。
text by
平松さとしSatoshi Hiramatsu
photograph bySatoshi Hiramatsu
posted2019/08/23 19:30
ナッソーSを制したディアドラは、9月14日のアイリッシュチャンピオンS(GI)を次走に見据えている。
1990年代、海外挑戦は珍しかった。
海外へ遠征する日本馬を、私が取材するようになってからすでに二十数年が経つ。
1990年代の海外遠征は非常に珍しいモノで、実際に出向く馬のほとんどは一部の招待レースだった。また、そうでないレースに臨むのは、ごく一部の調教師や馬主の馬に限られていた。
例えば1996、'97年にタイキブリザードがブリーダーズCに挑戦した時のこと。遠征自体が大々的に取り上げられ、同馬の関係者も何カ月も前から情報を収集した上で挑戦。それでもその努力に見合った結果を得ることはできなかった。
シーキングザパールとタイキシャトル。
'98年の遠征も印象的だった。この年の8月にはシーキングザパールがフランス・ドーヴィル競馬場でモーリスドゲスト賞(GI)を優勝し、日本調教馬初の海外GI勝ちを飾ると、すぐ翌週にはタイキシャトルが同地でジャックルマロワ賞(GI)を優勝。日本馬旋風が吹き荒れたのだが、この2週にわたるGI勝ちにこそ、当時の海外遠征を象徴するシーンがあった。
シーキングザパールは森秀行調教師、タイキシャトルはタイキブリザード同様、藤沢和雄調教師の管理馬だった。先述した通り、当時の海外遠征といえば、一部の馬主や一部の調教師が積極的に海を越えるだけ、というケースが多かった。その東西の横綱がこの両調教師だったのだ。
日本馬の海外遠征自体が珍しい時代だから、取材する私も年がら年中、海外にいるなどということはなかった。海外遠征というアドバルーンを揚げるだけで、実際には遠征しないという例も珍しくなく、もっと言えば、そういうケースの方が多いと思えたのが、この頃であった。
しかし、その後、香港やドバイの招待レースがすっかり定着。今ではそれらの開催に合わせて10頭前後が一度に海を越えることも当たり前のようになってきた。