野球善哉BACK NUMBER
新星扱いに苦しんだ甲子園経験者。
スーパー1年生という表現の危険さ。
text by
氏原英明Hideaki Ujihara
photograph byKyodo News
posted2019/07/19 07:00
酒田南時代、1年生で本塁打を放った美濃一平。彼も「スーパー1年生」という表現に悩み、苦しんだ。
中田級の存在ではなかったが……。
拙著『甲子園という病』の中で、美濃は当時をこう振り返っている。
「ホームランを打った日の夜に『熱闘甲子園』を見ていたら、酒田南の試合があった日なのに中田たちが紹介されていたんです。そしてそのあと、僕のホームランが取り上げられました。その時に初めて中田の存在を知りました。中田も1年なんやなぁって知るきっかけになりました。その後から意識するようになりました。あいつには負けたくない、と」
美濃には申し訳ないが、当時の中田と美濃のスケールの違いは明らかだった。美濃の上背が170センチを少し超えたくらいと小柄だったこともあるが、投打で圧倒的な才能を見せる中田とは差があったと言わざるを得ない。
もちろん、1年生ながら甲子園で活躍した彼は素晴らしい選手だし、美濃にポテンシャルを感じなかったわけではない。しかし、スーパーな存在かというと中田と同等とは言えなかった。
だが、美濃は世間から祭り上げられた。
美濃を苦しめたギャップ。
結局、美濃は2年生の秋に酒田南を退学した。彼を苦しめたのは、自身の目指すプレースタイルと世間が美濃に寄せる期待とのギャップだった。県大会の決勝から甲子園まで3つの本塁打を立て続けに放ったが、入学以来それまでホームランはなかった。
その3本による周囲からの視線は、彼に強く影響した。
「周りに意識させられるというか、自分の考えとのギャップがありました。僕は入学した時からプロに行けると思ってはいなかったんですけど、『どこの球団に行きたいの?』とマスコミの方に聞かれると意識してしまいますよね。マスコミの存在は大きかった。自分は注目されていると思っていなくても、周囲から必要以上に意識させられました。
僕のプレースタイルは甲子園に行っても変わっていなかったんですけど、周りから“すごいバッターだ”と見られているのは感じていました。打って当たり前、みたいな。だから、かっこいいところを見せないといけないと思いながら打席に立っていました。それは僕がやりたい野球ではなかったです」