甲子園の風BACK NUMBER
プロも育てた新潟の70歳監督の夢。
「野球場をつくれば球児は来る」
text by
田澤健一郎Kenichiro Tazawa
photograph byKenichiro Tazawa
posted2019/07/10 11:15
自ら探しあて、整備をした七湊野球場で村上桜ヶ丘高校(新潟)を指導する松田忍監督。
プレハブ小屋、テント、ログハウス。
グラウンドの周囲には、選手のロッカールームである工事現場にあるようなプレハブ小屋や運動会などで見かける屋根付きの大型テントが並ぶ。監督・マネージャー室として使っているのは小さなログハウス。施設に統一感はまるでない。だがそれは、完成に至るまでの携わった人間の多さと物語の象徴のようで、不格好さが愛おしい。
「ログハウスは学校に林業科があった時代、実習の先生が辞める記念に『小さくてもいいなら』と自らチェーンソーを持って私といっしょにつくってくれたもの。本当、人に恵まれていると思います」
それは事実なのだろうが、人に恵まれる遠因は、松田監督が長く新発田農で指導し、甲子園出場やプロ野球選手を育てたことで、地域に夢や楽しみを与え続けてきたこと、その報いのようにも思える。
こうして少しずつ七湊の地は「広場」から「野球場」へと姿を変えていった。
甲子園に1歩届かず「まだまだ未熟でした」
「それをつくれば彼は来る」
「それ」、すなわち野球場はできた。あとは「彼」、甲子園出場という称号が、このグラウンドに「来る」のみ。本格的に動き出した村上桜ヶ丘野球部は、松田監督の就任を知って選手が集ってきたこともあり、徐々に力をつけていく。
「就任から間もない頃は、選手や保護者と一体となって野球部を育てていた感じで。楽しかったですねえ」
2008年春には初の県制覇。2013年には椎野を擁して再び春に県優勝。夏も新潟大会決勝まで進んだが、日本文理に5対7で惜しくも敗れ、甲子園を逃した。
「6回にリードを奪いながら逆転負け。内容的には負ける要素がないゲームでしたが、リードしたとき、私の中にコールドくらいの点差でコテンパンにして勝ちたい、という気持ちが湧いてきたんです。日本文理には何度も叩かれてきましたからね。それがいけなかった。監督の心理は選手に伝染するもの、1点差でも勝ちは勝ちなのに、そんな欲を出したとたんに逆転されてしまった。まだまだ未熟でした」