甲子園の風BACK NUMBER
プロも育てた新潟の70歳監督の夢。
「野球場をつくれば球児は来る」
text by
田澤健一郎Kenichiro Tazawa
photograph byKenichiro Tazawa
posted2019/07/10 11:15
自ら探しあて、整備をした七湊野球場で村上桜ヶ丘高校(新潟)を指導する松田忍監督。
「イチからみんなで強くした野球部を」
松田監督は、現在は村上市と合併している旧・朝日村の出身。新発田農で投手・3番打者として活躍し、社会人野球・ニチエー(現バイタルネット)でも外野手としてプレー。選手引退後、営業担当として働く傍らで母校のコーチに就任。そこで甲子園を経験する。
「甲子園って、子どもたちが本当にイキイキとした顔になるんですよ。そんな顔をまた見たいと思ったのが監督を志したきっかけ。しかも、どうせなら強豪校ではなく、イチからみんなで強くした野球部で出てみたかったんです」
何かを気遣うことなく、まっさらな状態から自分の理想とするチームを作ってみたい。指導者ならば一度は夢見ることだろう。松田監督はニチエーを退職し、農業高校の農業実習助手になって野球部を指導する道を選んだ。
「それで最初に赴任先として希望したのが村上桜ヶ丘なんですよ。今も総合学科の中に農業系列クラスがあるように、当時は農業科があったし、地元の高校でしたから。野球部も目立つ成績を挙げていたわけではなかったですしね」
母校への義理を果たし、村上桜ヶ丘へ。
ところが、その希望は通らず赴任先は母校・新発田農となった。結果、そのままコーチを続けることになり、さらに前任監督が異動すると監督に就任する。自身の希望赴任先ではなかったとはいえ、勤務先であり母校。全力で指導した結果、就任2年後には甲子園出場。となれば「監督を続けてほしい」という声も大きくなる。
気がつけば新発田農での監督生活は10年を超えた。そして、富樫・加藤のバッテリーで甲子園に春夏連続出場した1998年限りで、新発田農での指導を終える。
「新発田農として初の選抜出場も達成したし、ひとつの区切り。富樫や加藤たちの世代に力があることはわかっていたので、結果を出したら、この年限りで退くことをあらかじめ決めていました」
立つ鳥跡を濁さず。後任監督の苦労が少ないよう、1年生の指導にも力を入れておくなど、母校への義理は果たした。
こうして1999年春、晴れて村上桜ヶ丘に赴任。既に50歳を目前にしていたが、若き日に抱いた夢へのチャレンジに胸はときめいた。
「赴任したらすぐに監督を、という話もありましたが、前任者の方が異動したわけでもないですし、私も最初の1年は環境整備など、やりたいことがいろいろあったので、監督は翌年からということにしていただきました」