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関根貴大、挫折の2年間と浦和帰還。
「僕、まだ、挑戦し続けますよ」 

text by

島崎英純

島崎英純Hidezumi Shimazaki

PROFILE

photograph byGetty Images

posted2019/07/01 17:00

関根貴大、挫折の2年間と浦和帰還。「僕、まだ、挑戦し続けますよ」<Number Web> photograph by Getty Images

ドイツ、ベルギーの地で挫折を味わった関根貴大。しかしその眼はまだまだ死んでいない。

「FK、なんで蹴らせたんだ?」

 異国の地で自らの存在を認知させるには相当な困難が伴う。リーグのプレーレベルに順応するのは当然として、その国の文化や風土を理解したうえで、言葉を解する努力も重ねなければならない。ただ、そんな障害は先刻承知していたはずだった。

 たとえば言葉に関しては、プレーで示しさえすれば周囲の信頼を得られると思っていた。それは日本のJリーグで育った自分が、そこでプレーする外国籍選手たちの勇姿を見て学んだことでもある。

 だが、その実力を示す場は限られた。無情だが、それがプロの世界であることを、当時の彼は受け入れられなかった。

「新しい監督(ライトル)が来たときにサイドバックでプレーした。4バックのサイドバック。それで、『俺はサイドバックの選手じゃない』と言いに行った。チームが4-1-4-1を採用したときはシャドーでもプレーした。でも、それも僕のポジションじゃない。そんな中で、DFBポカール(ドイツカップ戦)でチャンスが来たんです。1週間くらい前から『出場できるかも』と思っていて、気合を入れて準備した。その結果、先発出場して、前半で代えられました」

 ハーフタイム。その試合でプレスキッカーを務めていた関根に対して監督が叱責の言葉を浴びせた。

「お前、他の選手にFKを蹴らせただろう。なんで蹴らせたんだ?」

「分かった。後半は全部俺が蹴る」

 そう言い返してピッチへ戻ろうとすると、監督が呟いた。

「もう交代だ。下がれ」

 待望久しかった2度目のチャンスも棒に振ってしまった。

 その後はウインターブレイクに入るまでの約2カ月間、すべての試合でベンチ外を言い渡された。チームがアウェーゲームに赴いたとき、同じく帯同を許されなかったチームメイトとふたりだけで居残り練習したこともある。疎外感に打ちひしがれる日々の中で、トレーニングが終わったら寄り道せずに自宅へ帰った。

図れなかった監督との意思疎通。

 結婚したばかりの妻はあえて何も言わなかったが、その配慮が身に沁みて、かえって無口になった。鮮やかな新緑に彩られていた街の木々はすでに葉が落ち、上空には鉛色の雲が浮かんでいる。厳しい冬を迎えた街と同じく、その心は冷え切っていた。

 気持ちが落ち込めば周囲の景色も違って見える。人との触れ合いも煩わしくなる。周囲との関係性を構築する以前に自らが疑心暗鬼に苛まれていた。特にプロサッカー選手にとって最も緊密かつ深い信頼関係を築かねばならない監督との意思疎通が叶わない状況は辛かった。

「(2017年)12月に『俺、移籍したいです』と言いに行った。このチームでは戦力として考えられていないと思っていたから。監督は僕の移籍を承諾すると思っていた。でも、『ウインターブレイク明けにはお前を使う。だから他のクラブには行かせない』と言われた。僕は、その監督の言葉だけを頼りにしていたんです。でも結局、ウインターブレイクが明けてからも、僕は1試合もピッチへ立てなかった」

【次ページ】 「終わった」から3、4段階落ちた。

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