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視覚に頼らず壁を登るクライマー。
49歳の日本王者が越えた2つの挫折。 

text by

森山憲一

森山憲一Kenichi Moriyama

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photograph byKenichi Moriyama

posted2019/03/21 11:00

視覚に頼らず壁を登るクライマー。49歳の日本王者が越えた2つの挫折。<Number Web> photograph by Kenichi Moriyama

パラクライマーの蓑和田一洋、49歳。日本選手権では3度優勝している。

第2の人生、そして目に異常が……。

 クライミング中心の生活に終止符を打った蓑和田が次に求めたのは雑誌作りの道だった。

「ヨーロッパでよく読んでいた『Grimper』や『ON THE EDGE』などのクライミング雑誌が好きだったんです。アーティスティックなテイストがあって、とにかくカッコよくて。こういう雑誌を日本でも作りたいと思いました」

 蓑和田はアウトドア系の出版社に契約社員として所属し、編集・ライターとして働き始めた。会社で知りあった女性と結婚し、子どもも生まれた。仕事や家庭に追われ、自由な時間は少なくなっても、クライミングをやめなかった。かつてのように、思い詰めてひとつの目標に打ち込むことはなくなったが、山のなかの岩場で登る時間はいつでも楽しかった。

 そんな毎日を送っていた蓑和田が、目に異常を感じ始めたのは42歳のときだった。

 どうも目が見えづらい。これはおかしいと思っていくつかの病院で診てもらい、最終的に「緑内障」と診断された。

 編集・ライター仕事において、目が見えづらいということは大きすぎるハンディとなる。しかもこのときすでに契約社員の立場を離れてフリーランスで仕事をしていた蓑和田には、負担の少ない部署に異動させてもらうなどの、会社からのバックアップもない。

 思わぬかたちで、第2の人生も壁に当たってしまった。

パラクライマーとしての復活。

 そんなころ、蓑和田はパラクライミングのことを思い出した。日本の視覚障害者クライミングの草分け的存在といえる小林幸一郎を取材したことがあったのだ。目が見えなくてもクライミングをやっている人がいたじゃないか!

「モンキーマジック」というNPO法人まで作ってパラクライミングの普及に尽力している小林をはじめ、何人ものパラクライマーと交流しながら、蓑和田もパラクライミングを始めた。

 当初はとまどいつつも、登ること自体はもともと慣れたもの。すぐに適応した蓑和田は、2年後に小林らとともに出場した世界選手権B3クラスで優勝を果たす。20代のころにどうしても届かなかった世界王者の座に、異なるかたちでつくことができたのである。

「世界選手権に出場するには、国際スポーツクライミング連盟に選手登録する必要があるんですが、僕はすでに登録されていました。昔、ワールドカップに出たときの登録情報がまだ残っていたんです。選手としてまたここに戻ってくることができたという事実は、とても感慨深いものがありました」

 以降、2016年から今年2019年まで4年連続で、日本選手権B3クラスの表彰台に立っている。2018年が2位だったほかはすべて優勝。国内B3クラスではほぼ敵なしの状態だ。すでに49歳で身体能力的には下り坂のはずだが、かつて世界を目指して鎬を削ったクライミングの才能は、それだけ突出したものがあったのだ。

【次ページ】 第3の人生と、クライミングの両立。

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