“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
「スポーツで子供達に夢を」って?
湘南・梅崎司が見つけた、その答え。
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byTakahito Ando
posted2018/09/08 17:00
ベテランとはいえ、そのプレーの“キレ”は今も凄まじい。梅崎司は、湘南の地でしっかり未来を掴んだ。
生まれ故郷は諫早市だが……。
長崎のホームスタジアムであるトランスコスモス・スタジアムは諫早市にある。
梅崎はこの諫早市で生を受け、中学を卒業するまで育った、いわば故郷だった。
小さい頃から彼は旧・長崎県立総合運動公園陸上競技場(現在はトランスコスモススタジアム長崎と命名)の敷地内の芝生広場でボールを蹴っていた。当時はまだ、こぢんまりとしていたスタジアムを横目に見ながら、彼は1人で水の入ったペットボトルをコーン代わりに、自分の武器であるドリブルをひたすら磨いていた。
「いつかこのスタジアムで、多くの観客の前でプレーしたい」
幼心にそう胸に刻んでいたのには訳があった。
当時V・ファーレン長崎はまだ存在していなかった。しかし、当時の横浜フリューゲルスが長崎を準ホームタウン扱いとし、旧・長崎県立総合運動公園陸上競技場で年に1、2回Jリーグの試合を開催していたのだ。
年に1、2度のこのビッグイベントを心待ちにしていたのが、梅崎少年だった。
憧れたのは背番号「7」の前園真聖。
サッカー好きの叔父と共に多くの観客と共にスタンドで目を輝かせながら、プロサッカー選手のプレーを見つめていた。この時、彼にとっての運命の数字となる「7番」と出会う。
変幻自在のドリブルと、飽くなきゴールへの意欲を存分に見せる横浜フリューゲルスの背番号「7」に釘付けとなったのだ。
前園真聖。
当時、プロサッカー選手として絶頂だった前園のドリブルを見て、「いつか自分も前園選手のようになりたい」と心を躍らせていた。それから前園のドリブルを真似たり、自分の背番号も7番に、とこだわるようになった。
当時の梅崎少年にとって、サッカーは単なるスポーツではなく、人生における「一筋の光」だった。
この記事では深く言及しないし、すでに知っている方も多いと思うが、幼少期から中学までの彼の家庭は荒れに荒れており、彼自身もその環境に苦しみもがいていた。
「もちろん俺は諫早で生まれ、中学時代まで育った。自分の原点であることは間違いない。でも、正直諫早に良い思い出はあまり残っていないし、悪夢の方が多かった。
ここではいつも、いかにこの環境から抜け出すかを考えながらプレーしていた。サッカーはそれを実現する自分にとって大切な大切なものだったんです。だからこそ、俺も絶対にプロサッカー選手としてあのピッチに立ちたいと本気で思っていたんです」
梅崎にとってサッカーは、アスリートとしての純粋な憧れと同時に、日常生活で折れそうになっている自分の心を支えるかけがえのないものだったのだ。