欧州サッカーPRESSBACK NUMBER
ロシアの皇帝モストボイの今は……
プルシェンコとアイスホッケー!?
posted2018/06/05 17:00
text by
篠崎直也Naoya Shinozaki
photograph by
UNIPHOTO PRESS
スペイン西部の港町ビーゴで、今も神様のように崇められているロシア人がいる。
1996年から2004年までこの町のクラブ、セルタ・デ・ビーゴの司令塔として君臨していたアレクサンドル・モストボイである。
同じくロシア代表のMFワレリー・カルピンと共に中堅クラブだったセルタをリーガの強豪に押し上げ、その攻撃的なサッカーは世界中を魅了。創造性溢れるパスと変幻自在のドリブル、MFながら高い得点力も見せ、チームの心臓として輝きを放ったモストボイは、ファンから敬意を込めて「ツァーリ(皇帝)」と呼ばれた。
ロシア人にとっては最も光栄な愛称である。
2002年の日韓W杯で日本がロシアと対戦した際は怪我で欠場したが、事前分析で多くの専門家が「モストボイを抑えろ」と名前を連呼していたのを覚えている方も多いだろう。
CSKAの下部組織を経てスパルタクへ。
CSKAモスクワの下部組織で幼い頃から才能を発揮していたモストボイは、18歳の時にトップチームへの昇格が叶わず、同じモスクワのクラスナヤ・プレスニャでプロデビュー。当時同クラブを率いていたのは、後にスパルタク・モスクワの黄金時代を築くことになる名将オレグ・ロマンツェフ監督だった。そんな幸運な出会いに恵まれて、'87年に「ソ連のサッカー少年全員の夢」だったスパルタク・モスクワへと移籍した。
スパルタクの宿舎で同部屋となったのは、レフ・ヤシンの後継者として'80年代のソ連代表で守護神として活躍したレナト・ダサエフだった。そしてダサエフが去った後にルームメイトとなったのが、現ロシア代表監督のスタニスラフ・チェルチェソフである。
大酒飲みで夜遅くまで騒いでいた破天荒なダサエフに対し、チェルチェソフは真面目で規律に厳格。モストボイは30歳の時に初めてスペインでウォッカを飲んだそうで、酒が水より安かったソ連で育った若者としては奇跡のようなエピソードである。それはダサエフを反面教師に、チェルチェソフからプロ意識の高さを学んだ賜物なのかもしれない。