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ロシアの皇帝モストボイの今は……
プルシェンコとアイスホッケー!? 

text by

篠崎直也

篠崎直也Naoya Shinozaki

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photograph byUNIPHOTO PRESS

posted2018/06/05 17:00

ロシアの皇帝モストボイの今は……プルシェンコとアイスホッケー!?<Number Web> photograph by UNIPHOTO PRESS

1990年代後半から2000年代前半にかけてセルタの中盤を司ったモストボイ。引退後の人生も数奇だ。

ペレストロイカでソ連を去った。

 ソ連崩壊直前の1991年12月、23歳でポルトガルのベンフィカへ移籍。モストボイは、ソ連、CIS(独立国家共同体)、ロシアと激動の時代の中でそれぞれの代表を経験。しかし、クラブで見せる活躍の一方、代表では精彩を欠いた。その原因となったのは西欧とソ連・ロシアの指導法の違いだった。

 '86年のペレストロイカにより西側への扉が一気に開き、多くの有力選手がより良い条件を求めてソ連を去った。モストボイもその1人である。西欧の最新トレーニングを経験し、プライドも芽生えた選手たちにとって、監督への絶対服従を課すソ連の指導法は時代遅れに映った。

日韓W杯は怪我で出場がかなわず。

 ロシアとして初めて参加した'94年アメリカW杯では、大会前に西欧クラブ所属選手たちが中心となってサディリン監督の更迭を求める嘆願書を作成。大会をボイコットする選手が続出する中、モストボイは署名を撤回して本大会出場を決めた。

 しかし、指揮官からは重用されず1試合の出場に止まった。その後は'98年フランスW杯予選や'04年EUROでも監督批判により代表を外されている。ロシアでは今でこそセルタ時代の映像により再評価されているが、当時はモストボイと言えばトラブルメーカーとしての印象が強く、その輝かしいプレーぶりを知る者は少なかった。

 恩師ロマンツェフが監督を務めた'02年大会では、ようやく本領発揮かと期待されたが怪我により出場が叶わず、W杯には縁がない選手だった。それでもソ連時代の組織重視の代表において、天才肌の技術と創造性を持ちながらも招集すら叶わなかったスパルタクの先輩フョードル・チェレンコフなどに比べれば、西側への移籍によってその実力が評価された分だけ幸運だったのかもしれない。

【次ページ】 カルピンはビジネス展開する一方で。

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