“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
「ロシアW杯は柴崎岳の大会」となる?
常に一歩先を読んで生きる男の挑戦。
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byTakahito Ando
posted2018/04/02 08:00
青森山田時代の柴崎岳。高校1年生から背番号「10」をつけ、チームを攻守にわたって牽引し続けていた。
昔から、周りに左右されない生き方だった。
「もっと楽な、周りの話に合わせるような考え方ができた方がいいのかなと思うときはありますが……やっぱりそれは僕ではないので。自分の考え方を貫き通して、周りに左右されない生き方が、僕の中では確立しているので……」
これは彼が高3のときに語っていた言葉だ。
彼は高校時代から常に自分自身で壁を見つけて、じっくり考えながら這い上がってくるタイプだった。
よくある言い方の「壁にぶつかる」と言う表現ではなく、むしろ「ぶつかる壁を自らが積極的に探して、時には作り出して挑んでいく」と言った方が正確かもしれない。柴崎岳のメンタリティーの真髄はそこにあった。
つねに、ずっと先を考えてプレーしてきた男。
青森山田中学では、中学2年の時点で高校の公式戦への出場を果たしていた。その当時にしてすでに、「僕には高校チームに『入れさせてもらっている』という感覚はありません。通用しなかったら中学に戻されるだけ……それだけなんで」と言い放っていた。
「僕にとって高3の1年間は『高校最後の年』ではなく、『プロ1年目』なんです。すべてにおいてプロの基準でプレーしたい。そうやって自分に厳しく過ごせれば、いざプロになったら2年目の感覚で臨めますから」と語っていたその言葉通り、高校3年生の直前、早くも鹿島入りを内定させ、まったく緩むことのないプレッシャーを自らに与えていたほどだ。
鹿島に入ってからも「(小笠原)満男さんのように自分より上の存在がいることがとにかく嬉しいんです。全部学びたいし、どんどん自分を磨いていって、いつかは越えられるようになりたい。教えは乞うけれど……それでも僕は僕、満男さんは満男さんなんで」と語っていた。
鹿島では、やがて小笠原とコンビを組むようになり、ついにはチームの攻守の要として不動の存在にまで昇りつめてみせた。