フランス・フットボール通信BACK NUMBER
イラクのサッカー界は復活したか?
“負けたら拷問”時代からの復興。
posted2018/03/01 17:00
text by
クエンタン・ミュレールQueentin Muller
photograph by
Sebastian Castelier
『フランス・フットボール』誌2月20日発売号は、雑誌発売5日後の25日におこなわれる予定だったパリ・サンジェルマン対オリンピック・マルセイユのクラシコ(結果は3-0でPSGの快勝)を特集している。だが、今回ここで取り上げるのは、東京も含めた各大陸の両チームサポーターのルポルタージュではなく……イラクを巡るサッカー事情である。
サダム・フセインによる圧政とその後に続いた内戦、収束する兆しのないテロ――激動の時期を経たイラクサッカーは、今日、不正という新たな問題に直面している。
クエンタン・ミュレール記者が、バグダッドからイラクの現状をレポートしている。
監修:田村修一
兵士に守られた建物にあるサッカー協会。
カラシニコフを手にした兵士がゲートを開いた。フロントガラスにヒビの入った車は、砂嵐の中をゆっくりと進んでいく。無人の監視塔が並ぶ高い壁に沿ってしばらく走ると、サッカーボールのオブジェのある広場に行き当たる。
そこにイラクサッカー協会(IFA)はあった。
ふたりの兵士が目で通過の合図を示す。壁には661年に殉教した指導者アリを讃える旗が掲げられ、周囲を囲む建物は、戦争による破壊の爪痕をあちこちに残している。
待ち受けたシャラル・ハイダル・イラクサッカー協会副会長が、われわれの持参した書類にサインした。
自らの執務室に入り鍵をかけると、彼はミスバハ(イスラム教の数珠)をしっかりと握りながら、「私が拷問についてはじめて語ったサッカー関係者です」と、決然とした声で語り始めたのだった。
サダム・フセインの息子がサッカー協会会長だった。
1993年から'97年までイラク代表のディフェンダーであったハイダルは、サダム・フセインの息子でイラクサッカー協会会長として絶対的な権力を持って君臨し、1984年から2003年まではオリンピック委員会の委員長でもあったウダイ・フセインの逆鱗に触れ迫害され続けた。
「1993年、アメリカワールドカップの予選に向けて準備を進めていたときだ」とハイダルが振り返る。
「彼はわれわれにもの凄いプレッシャーをかけた。というのもアメリカこそは(悪の)象徴だったからだ。私はすでに2度にわたり、アル・ラドワニアの刑務所に投獄されていた。心身ともにボロボロで、とてもプレッシャーに耐えられそうにないから、代表から外してくれとオリンピック委員会に行って訴えたんだ」
だが、訴えは退けられ、委員会は彼にできる限り早く練習に復帰するよう命じた。
彼は恐怖に憑りつかれていた。2度にわたる代表の再編成は彼の心身をズタズタにしていた。