今日も世界は走っているBACK NUMBER
「自分流」を貫いた設楽悠太。
言葉、積極性、大迫と村山の刺激。
text by
金哲彦Tetsuhiko Kin
photograph byAtsushi Hashimoto
posted2018/02/27 17:30
設楽悠太は、2002年に高岡寿成がマークした2時間6分16秒を5秒更新。レース翌日には「2年後には2時間4~5分台を目標にしたい」と語った。
設楽悠太らしさが出た自分流の言葉。
また、実業団連合が掲げた1億円という“馬のニンジン”も功を奏したと考えられる。そして今後は、1億円を手にした設楽を見て「俺にもできるかも」と後を追う選手が増えることが予想される。
日本記録を達成した、設楽悠太自身のパーソナリティはどうだろう。
設楽悠太は、メディアの前で喜怒哀楽を見せない飄々としたタイプだ。突っ込んだ質問に惑わされることなく、自分流の言葉で答える。
東京マラソンレース前の記者会見でもそうだった。日本記録更新について聞かれた際に「勝負にこだわるので、タイムは結果についてくる」と答える姿勢には一貫性があった。周囲に合わせるのではなく、自分の信念を絶対に曲げない強さを感じた。
東洋大時代は双子の兄・設楽啓太(日立物流)の陰にやや隠れた存在だった。啓太は箱根駅伝で花の2区や注目される山登りの5区に起用され、事実上のエースだった。その一方で弟・悠太は区間賞こそ獲得したものの、走ったのは3区と7区。いわゆる”つなぎ区間”で貢献するバイプレイヤーだった。
しかし2014年に別の実業団に進んでから、双子の立場は大きく逆転した。悠太にとってホンダというチームの雰囲気やトレーニングに合っていたのだと思う。2015年のニューイヤー駅伝では最長エース区間である4区で区間賞に輝き、以後、駅伝での強さは群を抜いている。
大迫、村山相手の敗戦が心に火を点けた。
その後も勢いは止まらず、10000mでは27分台に突入。世界陸上北京大会の日本代表になった。しかし世界陸上では屈辱の周回遅れを経験し、アフリカ勢とのスピードのギャップを痛感した。
そして、2016年のリオ五輪イヤー。設楽は国内予選となった日本選手権の10000mにチャレンジした。ラスト勝負に敗れて3位に終わった。
このとき負けた相手が、同期のライバル大迫傑(ナイキオレゴンプロジェクト)と抜群のラストスパートをもつ10000mの日本記録保持者・村山紘太(旭化成)だ。
私は、この敗北が設楽悠太の心や考え方に火を点けたと思っている。