セリエA ダイレクト・レポートBACK NUMBER
長友のいないサンシーロは寂しい。
インテリスタが嘆くユートとの別れ。
text by
弓削高志Takashi Yuge
photograph byGetty Images
posted2018/02/07 11:00
あっという間にチームに溶け込み、キャプテンマークを巻き、長友佑都は走り続けた。インテリスタは彼を決して忘れないだろう。
長友が内田に言った「俺はあきらめないよ」。
悔しいことに、長友はついぞスクデットを獲得することはなかった。初年度に戴冠したコッパ・イタリア以降、インテルはあらゆるタイトルから長く遠ざかっている。
山あり谷ありだった在籍期間を振り返ると、長友のピークは2度あったように思う。
1つ目は、入団から出場6試合目のセリエA初ゴール、それからシャルケDF内田篤人(現鹿島)とのCL対決へと至る2011年の春だ。
長友は、観る者の理解が追いつかないほどのスピードで急成長を続けた。
東日本大震災のショックも未だ冷めやらぬ4月初旬、CL準々決勝でシャルケと対戦したインテルはサン・シーロでの初戦を2-5で落とした。敗退ほぼ不可避の重い敗戦だったはずなのに、試合後のミックスゾーンで長友の芯の強さを見た。
気丈に振る舞いながら「あきらめないよ。なに勝負はもう決まったような顔してるんだよ。俺はあきらめないよ」と内田に突っ込んだ、軽妙なやり取りはきっと一生忘れられない。
思想も戦術も母国語も違う10人の監督との関係。
2つ目のピークは、智将マッツァーリ(現トリノ)の指導を受けた'13-'14年シーズン、とりわけ攻撃面が開花した前半戦だろう。
“メッザーラ”と呼ばれる左サイドハーフにポジションを上げ、チャンスを作り、5ゴールを上げた。インテルの左サイドには、確かにナガトモという名の永久機関が存在した。シーズンが終わったとき、長友はローマDFベナティア(現ユベントス)と並んで、リーグ最多得点DFになっていた。
誰もが羨むビッグクラブにいたとはいえ、通算8シーズンの間、逆境はつねについて回った。右肩の脱臼や左膝の半月板と靭帯損傷など、長期欠場につながるケガに度々見舞われた。
だが、長友が本当に凄かったのは“内なる戦い”に勝利し続けたことだと思う。
1年目のレオナルドから今季のスパレッティに至るまで都合10人に及ぶ、思想も戦術も母国語もまったく異なる監督たちの指導に適応しようと、ハードワークを怠らなかった。