サッカー日本代表「キャップ1」の男たちBACK NUMBER
伝説のスーパーサブ森山泰行の今。
代表1キャップで感じたカズの理念。
text by
吉崎エイジーニョ“Eijinho”Yoshizaki
photograph byEijinho Yoshizaki
posted2017/12/08 11:30
高校サッカー激戦区の1つ、埼玉で指導する森山。自らのサッカー人生で得たものを育成年代に還元する。
オシム率いるパルチザンと「Cマッチ」で戦った。
大学は順天堂大へ。2年時にレギュラーを獲得した森山は、学生にして早くも日本代表入りを果たす。まだJリーグが誕生する前、'91年のことだ。
時の監督は横山謙三。'88年から'91年まで採用された、赤いユニフォームを着用した時代でもある。試合にも出場した。
1991年4月4日 スパルタク・モスクワ戦(@国立 0-0 先発出場)
1991年7月20日 パルチザン・ベオグラード戦(@三ツ沢 0-1 77分より出場)。
「パルチザンはイビチャ・オシム監督率いるチームだったんです。あの時、足首のケガがなければ、早々に代表に定着できていたかな。そんなことを思うこともあります」
この2試合は、現在の規約に沿えば「国際Cマッチ」ということになる。日本代表がクラブチームと試合をする。Aマッチの結果により算出されるFIFAランキングがワールドカップ本戦での組み分けに影響する現在では、なかなか見られない風景だろう。そんな時代のあやもあり森山は「キャップ1の男」となっていく。
ウルグアイからオファーを受けたが……。
日本代表選出のほかにも、大学時代の森山は引く手あまただった。大学4年の春にウルグアイのペニャロールに練習参加すると、そのままアルゼンチンの名将、セサル・ルイス・メノッティ率いるチームから入団のオファーを受けた。
「その時の契約の形態がかなり複雑だったんです。今みたいに代理人制度が発達していなくて。カズさん(三浦知良)にも相談してみたら『やめておいたほうがいい』という話になって」
周囲からも1年待って、大学で体育教師の資格を取ってからでも遅くないと説得され、踏みとどまった。あの時、行っておけばよかったと思う時もある。現在、高校のサッカー部で監督を務めるが、これは教員免許を活用したものではない。サッカー部を担当する教員がほかにおり、森山は監督職を務めているのだ。
'92年、大学卒業後に名古屋グランパスエイトに入団。そのころから自身が「屈折していた」と振り返る時間を過ごしていく。
「Jリーグが始まった頃、急激なプロ化により、あまり実績のない選手やそれほど力のない選手もどんどんプロ入りしていったんです。そういった選手と同じ扱いはしてほしくない。そんなことを考えてしまっていたんです」