オフサイド・トリップBACK NUMBER
日本の特産品“トップ下”が消える?
本田・香川が外れた戦術的な意味。
text by
田邊雅之Masayuki Tanabe
photograph byTakuya Sugiyama
posted2017/11/04 11:30
W杯出場を決めたオーストラリア戦、本田と香川に出番は訪れなかった。それを思うと今回の招集メンバーは驚きではないだろう。
日本サッカー最大の特産品はトップ下だった。
日本サッカー界は往年の釜本邦茂や奥寺康彦以来、さまざまな人材を世界の舞台に輩出してきた。数年前には長友佑都と内田篤人がCLで対決するなど、日本人サイドバックが欧州で高い評価を受けたこともある。FWとCBは泣き所だと言われてきたが、最近は岡崎慎司や久保裕也、吉田麻也のような人材も台頭してきた。
だが総じて見るならば、日本サッカーの最大の特産品が攻撃的MF、いわゆる10番やトップ下と呼ばれるポジションの選手だったことは間違いない。
ヨーロッパに行けば、いまだに「ナカータ(中田英寿)は何をしているんだ?」と尋ねられるし、中村俊輔がCLのマンチェスター・ユナイテッド戦で決めた2本のFKは、今も語り継がれている。そしてフェイエノールト時代の小野伸二。ポジションこそ下がり目だったものの、アジアが生んだ最高のチャンスメイカーだったと絶賛する人は多い。
本田や香川、清武弘嗣などは同じ系譜に連なるが、これらの選手は代表においても大黒柱になってきた。能力が単純に高いからではない。そもそも日本代表のスタイルそのものが、トップ下を軸にいかに決定的なチャンスを作り、ゴールを奪うかという発想に基づいてきたからだ。
しかも日本には、このようなタイプの選手が登場してくる素地があった。育成年代から、攻撃的MFに憧れる少年が圧倒的に多かったためだ。「キャプテン翼症候群」なる言葉さえ生まれたのは今も記憶に新しい。
’90年代末までは、世界でも10番が脚光を浴びていた。
とはいえ10番の人気が高かったのは、日本特有の現象ではない。ジーコ、マラドーナ、プラティニ、バッジョ、カントナ、ベルカンプ、ストイコビッチ、ジダン、1970年代中盤から1990年代末にかけては、世界のサッカー界全体でも10番が脚光を浴びていた。
ところが、このような傾向は、2002年の日韓ワールドカップあたりから一気に変わり始める。ピエール・リトバルスキーは大会が終わった直後、次のような内容の総括をしている。
「今は選手のフィジカルの能力が上がって、誰もが試合の間じゅうプレスをかけ続けるようになってきている。だから優秀なゲームメイカーがいたとしても、活躍するスペース自体がない。相手のマークが激しく、前を向いてプレーさせてもらえないんだ。そのいい例がジダンであり、トッティにゲームメイクを託したイタリアだった。逆にロナウジーニョがあれだけ活躍できたのは、真ん中に固執せず、どんどん左右のスペースに走り込んでいったからだ」