球道雑記BACK NUMBER
片岡治大の引退と“ともあきさん”。
「人見知りのあいつがこれだけ……」
text by
永田遼太郎Ryotaro Nagata
photograph byKyodo News
posted2017/10/08 09:00
片岡の語り草と言えば、2008年日本シリーズの好走塁。佐藤から受けた教えは、ひとつひとつのプレーに生きていた。
自他にも他人にも厳しい「ともあきさん」。
プロ2年目(2006年)のシーズン、片岡は115試合に出場して打率2割9分2厘、盗塁28をマークした。当時、覚醒の要因として何があったのかを尋ねると、彼は相変わらず言葉少なげではあったが「バッティングと走塁は、ともあきさんを参考にしています」と、言葉を返してくれた。
片岡の言う「ともあきさん」とは現在、埼玉西武で外野守備・走塁コーチを任されている佐藤友亮のことである。
2004年、中日との日本シリーズでチームトップの打率3割9分4厘をマークし、日本一に貢献したユーティリティプレイヤー。「球界の諸葛亮孔明」との異名もついていたが、当時の佐藤は、まさに“職人”と呼ぶにふさわしい人物だった。礼儀礼節を重んじ、野球を深く考え、練習では誰よりも努力を惜しまなかった反面、努力をしない人間には見向きもしない。他人にも自分にも厳しい人だった。
それは取材でも同じで、安易な質問にはまともに答えてはくれないタイプだった。
たとえその質問が正解ではなくても、何か1つしっかり考えてきてからここに来てくださいという姿勢は、誰に対しても変わらなかったし、それはチームメイトに対しても同様だった。プロ1年目の片岡が、佐藤にバッティングや走塁技術の教えを乞うたときも、佐藤は「態度だけは見ておく。受けるか、受けないかはその後で考える」とそっけなく返答したという。
石毛宏典、松井稼頭央から引き継いだ「7番」の重圧。
当時の片岡は、プロの世界になんとか食らい付こうと必死だった。
入団当初、ぶら下がり取材のコメントが数少なかった理由も、その背景を知れば理解できる。
石毛宏典、松井稼頭央から引き継がれた偉大なる“背番号7”の重圧も当然あっただろう。ましてや即戦力を期待されて入団している社会人出身の選手である。余計なことを考える暇などなかったといえる。
ナイター終了後はバット片手に、西武第二球場の隣にある室内練習場へそそくさと向かって、時計の針がてっぺん近くになるまで打ち込む姿を何度か見かけたし、当時の彼はそれくらいいつもギラギラしていた。