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権田修一、味スタで流した涙の裏側。
「あのピッチに立つことが怖かった」
text by
西川結城Yuki Nishikawa
photograph byJ.LEAGUE PHOTOS
posted2017/04/06 11:15
味の素スタジアムに、鳥栖の一員として立った権田修一。不器用が免罪符になるわけではないが、この男が悪い人間でないのもまた事実なのだ。
オーバートレーニング症候群、そして渡欧。
試合後のロッカールーム。マッシモ・フィッカデンティ監督(現・鳥栖監督)に意見をぶつけた。良いことも悪いことも表現する。妥協知らず、愚直な性格が前面に出た。
主張は、指揮官との間に衝突を生んだ。そして、権田の心身はここで燃え尽きてしまった。
その日の取材エリアに、彼が最後まで姿を現さなかったことを鮮明に覚えている。結局、次の日から合流予定だった日本代表(東アジアカップのため中国に遠征)からも離脱。診断結果は、オーバートレーニング症候群。権田はそのまま、長らく戦列を離れることになった。
秋頃に一時はチームに復帰するも、試合に出場できる状態ではなかった。冬には環境を変えるために渡欧した。向かった先は、SVホルン。本田圭佑が実質オーナーを務める当時オーストリア3部(現在2部)のクラブに、期限付きで移籍した。ブラジルW杯をともに戦った本田からのラブコールもあり、権田は心機一転プレーに挑んでいた。
ホルンの正GKとして取り戻したプレー意欲。
加入直後のリーグ戦。今度は負傷という試練が待っていた。骨折で長期の離脱。サッカーができる喜びを取り戻した矢先の、新たな壁だった。追いうちをかけるような事態に、それでも権田はこらえながらも前を向いた。「心身ともにサッカーができなかった時期を経験した。それに比べたら、へっちゃらですよ」。当時彼が語った言葉。少し強くなった権田がいた。
復帰後は、チームの勝利に貢献した。ホルンは2部昇格を果たし、権田も正GKとして毎試合ゴールマウスに立った。欧州下部リーグとはいえ、個人のプレー強度は日本では体感できないレベルを味わった。またGK指導においても、そこには本場でしか味わえない本質があることを知った。
もう、一度燃え尽きた彼ではなかった。プレー意欲、野心をしっかりと取り戻していた。さらに欧州の上のレベルで、自分の腕試しをしたい。素直にそう思えるようになっていた。